象の夢を見たことはない -253ページ目

海へ来なさい。

NHK教育 PM11:00からの「井上陽水40年を語る」がなかなか良い。



多感な大学の後輩の女のコ(既婚)が、

「いつかシチューを一日コトコト煮たい。そういう生活がしてみたい」

と言ってた。

望みかなうことのないささやかな願い。

いつか井上陽水の詩にあるような…と高校のときにおもったのだが、

オレのオトナな時間はいったいどこへいったんだろうと。

夏のこの時期に井上陽水って合うなあ。涼みながら夜道を歩いているとつくづくそう思う。


ダスボン 

にゃんて素敵なリバティ、それはリバティ音譜

ロクでもないことばかり書いてて病んでしまったぜ。

あー、ライブ生きたい。

多くの祭り(フェト)のために

多くの祭り(フェト)のために

「グレート・ギャッツビー」を書いた、スコット・フィッツジェラルドの言葉の引用で、…

そ、そうだったのかあせる
直子のココロの病気にかかっていたのですね。そうか、春樹氏、そのとき苦しかったろうねええぐえぐ。。。

フランス語を直子のまわりにまとわせたのも、そこへ到る見えない道をつけるためだったと。。
であれば、ドイツをまとわせたワタナベノボルにもまだかけられた謎があるのか。

メタファーと言葉による謎かけ。春樹氏、物語の題名にも、そういう呪文をかけているらしく。。海辺のカフカも、そういう意味だったのかと。。

『1Q84』は、読売オンラインの春樹氏のインタビューからすると、物語の構造自体にさらに複雑なメタファーをかけてるっぽい。

     夜の街   流れ星   夜の街   流れ星   夜の街

ソシュールの言語学について、やっと本を読み始めた。やたら、難解らしいのでとりあえず解説本から。

ソシュールと言語学 (講談社現代新書)/町田 健

¥756
Amazon.co.jp

てか一般言語学講義、高っ!買えん!
ので、たぶんこの本だけでソシュールは読んだことにして知ったかぶりしてしまおう。

言語の恣意性。その恣意性の発見(もしくは認知)が、構造主義へと世の中を引きづり込むことになる。
同様の恣意性が、言語に限らず様々な象徴や指標でも見出されることが再認知され、ヨーロッパ哲学やら人類学やらの一大潮流となって、結局それがちょっとまえの記号論ブームにまで続いている。

で、これらの人々の眼目は、「いったいその恣意性はどこから来ているのだ?(つまり恣意だと後に続く構造主義者、レヴィ=ストロースにしろラカンにしろ考えてはいない。そういう意味での反語)」という問いと「その恣意性はどこまで人に影響をあたえるか」という帰納・演繹両方向への問い。

オカルト好きなわっしは、言語や象徴の呪術性に興味があって。。それもひっくるめて脳科学的に簡単に回答できないのかなあと。

要は言語や物語が構造的にもつ仕組みは、脳の持つ抽象化・スキーマと構造的に相似で、これによる錯覚的な影響が、理性の磁場をおかしくしたり、もしくは無意識的な決定だったり直観だったりに大きな影響をあたえてるんじゃねえかと。

前にも書いたが、限られた数の脳細胞で世界全体を把握しようという試みは、何らかの事象を簡略化した別の事象で代替して表現する手段を脳細胞の中で取ろうとすることで決着をつけようとする。
この結果、自然現象を、あるいは身の回りに起こる出来事を、基本的な形へと象徴させようという構造的な運動が生じる。

この象徴化による錯覚が無意識が持つ呪術性に結びついていると。もちろん、無意識の持つ呪術性というのはこれだけではないのかもしれないが。。

つまり、呪術はスキーマ認知による錯覚で発生すると。ただ原理的にはそれだけの話だろうと。
そしてメタファーによってその呪いはかけられるのだと。
もちろん、その構造化の仕組み自体が、人間の認識や無意識に根本的に結びついているし、そういう意味で少なからず実際の現象世界とも関係しているので、現実的な影響はある。そういう意味で呪いは存在すると思うのだけど。まあ、それはおいといて。。

村上春樹の小説が持つ物語性・呪術性のモーメントは、言語的なメタファーだったり、物語の構造によるメタファーだったりで発生する。それが彼の小説がもつ原理なのだろうと。

ああ、でも単純な呪文のほうがかかりやすかったりするかも。。『1Q84』は複雑すぎで、わっしはかからんかったぞよ。
うーん。あってるのかなあ、これ。

まあ、いずれにしろ錯覚なら錯覚で、おなじアホなら踊りゃな損!損!ってとこなのかしら。かしら。かしら。。

再読 村上春樹

ユングが言うには

自分の夢を数年間にわたってシリーズとして研究するならば、ある定まった内容が出現したり、消え失せたり、再び現れたりすることに気づくだろう。まったく同じ像や景色や場面を繰り返し夢見たりする人も多い。そして、全系列にわたってそれらをみてゆくならば、それが徐々にではあるが変化してゆくのを認め得るだろう。…
このようにして、われわれの夢の生活は絡み合ったひとつのパターンを作り、それにわれわれの素質や性向が現れたり、消えたり、再現したりする。
この絡み合ったデザインを長期間観察するならば、一種の隠された規則性ないし方向性が働いていて、目に見えないほどの遅々たる心の成長過程-つまり個性化の過程-を作り出していることを見いだすことができる。


村上春樹氏の本は、その本が出た時には、そういう意味で評価できない部分が多く含まれている。
「あっ!あれはそういうことだったのか」
と、本人すらそのときわかってなかったんじゃねえかというブツの意味が、あとで出た長編でわかったりする。
短編・長編で同じモチーフが出てきて、どっちがどう繋がっているのか、2、3作品だけでは判断できない。しかもときどき途中であさってのほうへ消えたりするのでさらにわからない。で、また戻ってきたり。

そういう意味で、彼の作品全部が続きものになっている。

たとえば、井戸。
こないだ『ノルウェイの森』を読み直して、冒頭の大事なところに出てくるのに気づいた。すっかり忘れていた。『ノルウエイの森』では、草に覆われて入口がわからないのだけれど、この井戸に結局『ねじまき鳥のクロニクル』で潜ることになる。。それって本人すら気付いてなかったはず。

『1Q84』は、直接のマエフリは『アフターダーク』にあって、ここではエリは閉じ込められて眠ってる。まさか、こんなふうに続くとは。。てか、『アフターダーク』、こういう結論でいいのだろうか。だろうか。。
しかしなんでテレビなんだろ?まあ、テレビの画面も井戸も異界への入り口なんだろうけどさ。

ときどき、本当に本を読んでいる自分も帰ってこれなくなるのが、村上春樹の短編、長編の怖いところで、うまく彼が帰ってこれないと、こっちまで巻き添えを食らうのが、きゃつの物語が持つ恐ろしいモーメントだったりする。
とりあえず、この本で『アフターダーク』からは帰ってこれた。。のだろうか。だろうか。。
いまだに、『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』のなかに自分の一部が閉じ込められているような気がするんだよなあ。やれやれ。

TVピープルや小人が邪悪なイメージを持つ理由

『都市伝説』を見ていたのだけれど、そういや「ちっちゃいおっさんを見る」とか「小人を見る」とか力説する芸能人がいたなあと。釈由美子とか的場浩司だとか木下優樹菜とか。中島美嘉とか浜田雅功とか。。

昔話にも一寸法師だとか妖精だとかの話はある。
これらは『トリックスター』を表していると思っているのだけれど、どういう人がこういう像を見やすいのかというのに興味があってちょっとユングの本を漁ってみた。

基本的にこれらの像は自分の影で、それを取り込むことによって個人的な自我に欠けている力を供給するという心的な働きがある。現実にそれらを像として見てしまうとこまでいくという理由については、まだちょっと保留。あと、「おっさん」である理由についても保留。おっさんであるのは、セルフ(自己)にある男性原理の投影のようなのだが。。

英雄像のもっとも初期の段階の形である『トリックスター』は人生の最も初期の最も未発達な段階に相当する。
トリックスターは身体的装置が、彼・彼女の行動を支配しているという像である。
彼は、幼児の知能を持っている。自分の基本的欲求を満足させること意外のいかなる目的もなく、彼は凶暴で、道徳否定的で、残酷である。


出典本は、『人間と象徴』(上巻) C・G・ユング 河出書房。
妖精は子供にしか見えないと言われるわけは、そういう理由だったりもする。

ちなみに、この話のもととなったウィパネバゴー・インディアンの英雄神話は4つの周期にわかれていて最終周期は「双生児」の周期。双子も村上春樹の本によく出てくる。

宇宙人の話も結局は自己のトリックスター像で意味は同じ。木下優樹菜が出会ったらしいが。。
あと、こういう化け物みたいなものは、体が緑だったとかいう一部の証言にも、なぜ緑なのか理由があるらしい。。村上春樹の短編にも緑の化け物の話はありますな。
ちなみに、白雪姫に出てくる小人が緑の帽子で緑の服を着ているように描かれることが多いのにも意味があります。

で、これらの像については、「英雄像は永遠の物語という幻想の助けによって、成長の問題に対処しているわれわれの努力を表現している」そうで、「彼の前に立ちはだかる人生の困難な仕事の数々に立ち向かえるようにさせ、自身の力量と弱点を自覚させる」働きがあるとか。なので、なんらかのコンプレックスを無意識に自覚したときに像として見えると。
なのでそれらに出会った彼らとか彼女たちのそのときのバックグラウンドとなにか関係ありそうな。。

『ノルウェーの森』の文庫版を買いなおした。
なぜ、緑なのかというのがこの本のミソのひとつのような気が。
ハルキ氏は、そのとき天真爛漫ななにものかに支えられたのかなあと。どこまでが私小説なのかわからないけれども。

『1Q84』を読んだけど、今もまだ「この人、子供だなあ」と思うところがある。
ただ、人の成長ってユング派の人がいうような単純な段階で発展するものでもないような気もするが。

これらは、幻視として見る人もいるし、まあでも普通の人の場合夢にあらわれるイメージなのだけれど、他人にそれを投影することも多いのかなあとも。
自分が嫌いだと思っている人にそういう自分の影を投影するのはよくある話なので、嫌いな理由を分析すると、自分の影というか自分のもろい部分、そのときに向き合わなければならないはずの課題がわかるような気もする。
トリックスターであるなにものかを、ある人のなかに見出して、「自分がひっかきまわされている」「静かな自分を邪魔する」という怒りや憎しみをその人に感じるとき、その結果は…

トリックスターとは、「神話や物語の中で、神や自然界の秩序を破り、物語を引っかき回すいたずら好きとして描かれる人物のこと」で、「時には悪意を持って行動するが、結局は良い結果になることが多い。引っかき回す行動としては、盗みやいたずらというパターンが多い。抜け目ないキャラクターとして描かれることもあれば、愚か者として描かれる場合もあり、時には両方の性格を併せ持つ者もある。文化的に重要な役割を果たしているとき(例えば、火を盗むなど)や神聖な役割をしているときでさえ、おどけてみせたりもする。文化的英雄であると同時に悪しき破壊者であり、あるいは賢者であり悪者など、法や秩序からみれば一貫性を欠いた矛盾する役割が属性である。」(Wikpediaより)

結果は、神のみぞ知るといったところかもしれないけれど、そういう輩に巻き込まれるとき、自分の生命エネルギーが呼び起こされることはたしかで。。
自分の人生を思い返すと、実は、そういう人に出会ったときに大きな転機と展開が訪れたんだよね。

『ノルウェーの森』の場合、主人公であるハルキ氏=ワタナベノボルにとって、緑は吉兆だったりする。
呪術的な、キヅキ=直子、永沢=ハツミの関係から救い出してくれる存在。
加藤典洋氏がいうには、これらは、赤と白で表現されているとか。たしかにアカイトリが直子と会ってるときに象徴的に現れるので、この解説を読んだときにハッとした。そうなのか!と。ビリヤード(4つ球、赤と白)をこれらのパートナーの片方とそれぞれプレイしたときが、死と生の転機になっているのが、象徴的だったことも電撃的に思い出した。

なぜこの物語がドイツから始まるかっていうのは、『白雪姫』がどこの国の童話か調べればわかるはず。
そうです。この話、オマージュになっていたりするのですね。ただのセンチメンタルな私小説ではなく、セックスと死の童話だったりもします。以外と知られていませんが。ピース。

「多くの祭り(フェト)のために」。fête[フェト](祭)ってフランス語なんだよね。なぜ、フランス語を?そこがまだ解読できないのだけれど。

色の持つ呪術性については、またそのうちに。

とりとめなく。おしまい。