座 hate 骨
いつのまにやらアリマツ氏のドラムが要塞化している!
DETOROIT欲しい!

僕の目は死に痛みを感じない欲しいぃ!

HELL'S KITCHENだけは持っている。

楽曲ヤバし。1999までだ、個人的には。
だがこの頃の彼らを知らないのである。
フトシちゃんと八っちゃんだけでは無理なのだ。
コアなアンダーグラウンドシーン。
ザがつくころのHATE HONEY
だから今そういうレベルのアンダーグラウンドなバンド
…になって出てきたらすごいね。
ハードル激高!
さて、VEZでこのザわつきを越えられるかな、ふふふ、ははは!!!(星一徹風)
8/3 大阪vijon
8/4 名古屋CLUB UPSET
9/7 札幌mole
9/8 札幌SPIRITUAL LOUNGE
9/17 下北沢Shelterワンマンライブ決定!
RVR 芥川賞は『冥土めぐり』に HD
RVR 芥川賞は『冥土めぐり』に HD (クリックで飛びます)
前々回の第145回芥川賞(受賞作なし)での龍氏の円城塔氏作品に対する選評に対し、一時期ネット上でも論争(というか村上龍氏への批判)が起こって、それに対する釈明もないまま、第146回芥川賞は欠席。そして欠席後の第147回芥川賞だったわけで、RVRでの放送もないし、正直村上龍氏今回も欠席してるんだろうかと危ぶんでいたのだけど、やっと放送。
結局あの問題はどうなったんだろう?まあ、本質的にそこが問題で龍氏が円城氏の「これはペンです」を選から外したわけではないと思うので、もう一度どこかでエッセイとかで書いて仕切り直しすればいいだけじゃないのかと個人的には思うのだけど。
そのせいか、RVRの芥川賞HDもトーンダウンして、なんだか本来の選評とは関係のない話でお茶を濁す的な。壺井円さんは頭のいい人なので、気を使ってその点をうまくごまかして本題に入らないように芥川賞の雰囲気の話だとか会場の話だとか伸ばしてたのだけどね笑
ていうか彼女もたいへんだよ苦笑 気難しい作家の方々の相手ってやはりこういう素養がある人しかできないんだろうなあとも思う。
まあそうも言ってられないってことで龍氏が逆に円さんを促して話を始めたのだけど、龍氏も内容にまで踏み込んだ話もできず今回のRVRは終わり。うーむ。まったくつまらなかった。芥川賞のHDだけがRVRでほんとに価値があるいいプログラムだったのに。。
芥川賞というのがいまだにそこそこ話題になるってことは、日本に新しいことが起こってないってことなのかと。ホントは雇用の問題だとか医療の問題とか激動の時代なのだけど、それをメディアが伝える受け皿を用意してないというか。ほんとは芥川賞が話題にならないってほうが健康的でいいと思うんだけど。なんてのが今回の龍氏のRVRでのまとめだったのだけど。
うーん、芥川賞が話題になってた時代のほうが健康的だったんじゃないだろうかと自分には思える。あ!違う。紅白歌合戦が人気があったころは、芥川賞なんて大した話題にならなかったんだ。一部の読書好きな人たちと出版界でだけ話題だったんだ!そうだった。今は、逆に、芥川賞を取るべき作品が待ち望まれているにもかかわらず、それを生みだすべき人がいなくなってしまったというか、すべての人が何かを芥川賞に対して待望しているのだけど、それを生みだす土壌がいつのまにか流されて無くなってしまっているというか。苦役列車の映画化だの「貰っといてやる」発言だのが、話題になるってこと自体おかしなわけで。
それが話題になるってことは、誰もが「今は人はいるんだけど、中身の人がいないというか、外の人だけがすべてになってしまっているんじゃないか?」と思ってて。だから、少なくとも芥川賞にはなにかあるんじゃないかと期待しているというか。なんなんだろう、この感じ?娯楽はいっぱいあるけど、なんだか外の人が反応してるだけで、中の人が見えないというよりいるのかどうかすらわからない。自分の中にも語るべきものがなにもないんだろうか?やっぱり。たぶんそこが問題だ。人がどうこうってことよりも、オレは自分を語れるのだろうか。。
前々回の第145回芥川賞(受賞作なし)での龍氏の円城塔氏作品に対する選評に対し、一時期ネット上でも論争(というか村上龍氏への批判)が起こって、それに対する釈明もないまま、第146回芥川賞は欠席。そして欠席後の第147回芥川賞だったわけで、RVRでの放送もないし、正直村上龍氏今回も欠席してるんだろうかと危ぶんでいたのだけど、やっと放送。
結局あの問題はどうなったんだろう?まあ、本質的にそこが問題で龍氏が円城氏の「これはペンです」を選から外したわけではないと思うので、もう一度どこかでエッセイとかで書いて仕切り直しすればいいだけじゃないのかと個人的には思うのだけど。
そのせいか、RVRの芥川賞HDもトーンダウンして、なんだか本来の選評とは関係のない話でお茶を濁す的な。壺井円さんは頭のいい人なので、気を使ってその点をうまくごまかして本題に入らないように芥川賞の雰囲気の話だとか会場の話だとか伸ばしてたのだけどね笑
ていうか彼女もたいへんだよ苦笑 気難しい作家の方々の相手ってやはりこういう素養がある人しかできないんだろうなあとも思う。
まあそうも言ってられないってことで龍氏が逆に円さんを促して話を始めたのだけど、龍氏も内容にまで踏み込んだ話もできず今回のRVRは終わり。うーむ。まったくつまらなかった。芥川賞のHDだけがRVRでほんとに価値があるいいプログラムだったのに。。
芥川賞というのがいまだにそこそこ話題になるってことは、日本に新しいことが起こってないってことなのかと。ホントは雇用の問題だとか医療の問題とか激動の時代なのだけど、それをメディアが伝える受け皿を用意してないというか。ほんとは芥川賞が話題にならないってほうが健康的でいいと思うんだけど。なんてのが今回の龍氏のRVRでのまとめだったのだけど。
うーん、芥川賞が話題になってた時代のほうが健康的だったんじゃないだろうかと自分には思える。あ!違う。紅白歌合戦が人気があったころは、芥川賞なんて大した話題にならなかったんだ。一部の読書好きな人たちと出版界でだけ話題だったんだ!そうだった。今は、逆に、芥川賞を取るべき作品が待ち望まれているにもかかわらず、それを生みだすべき人がいなくなってしまったというか、すべての人が何かを芥川賞に対して待望しているのだけど、それを生みだす土壌がいつのまにか流されて無くなってしまっているというか。苦役列車の映画化だの「貰っといてやる」発言だのが、話題になるってこと自体おかしなわけで。
それが話題になるってことは、誰もが「今は人はいるんだけど、中身の人がいないというか、外の人だけがすべてになってしまっているんじゃないか?」と思ってて。だから、少なくとも芥川賞にはなにかあるんじゃないかと期待しているというか。なんなんだろう、この感じ?娯楽はいっぱいあるけど、なんだか外の人が反応してるだけで、中の人が見えないというよりいるのかどうかすらわからない。自分の中にも語るべきものがなにもないんだろうか?やっぱり。たぶんそこが問題だ。人がどうこうってことよりも、オレは自分を語れるのだろうか。。
show by hannjoe
てか、「事件ってなんかすげえものをやんなくちゃいけないんだよな?」
って思うこと自体が自意識過剰なのか。
自分の中での事件って結構毎日起こってるもんね。
このまんじゅう旨いとか、このひげそりすげえ剃れるじゃん!とか。
風邪っぽい、薬飲んどこうとか。
相手をどうこうしてやろうってことより、自分目線で考えるってこと?
結局それって、商売や仕事の基本じゃねえか笑
でも、意外と、意外とそれってブラインドサイドにあったりするのよねん。
あ、ブラインドサイトだ。ラグビーなのな、ブラインドサイド。
まあ、押しこまれてると焦って見えなくなるってことで手を打とうか。打て。打ってくれ!
って思うこと自体が自意識過剰なのか。
自分の中での事件って結構毎日起こってるもんね。
このまんじゅう旨いとか、このひげそりすげえ剃れるじゃん!とか。
風邪っぽい、薬飲んどこうとか。
相手をどうこうしてやろうってことより、自分目線で考えるってこと?
結局それって、商売や仕事の基本じゃねえか笑
でも、意外と、意外とそれってブラインドサイドにあったりするのよねん。
あ、ブラインドサイトだ。ラグビーなのな、ブラインドサイド。
まあ、押しこまれてると焦って見えなくなるってことで手を打とうか。打て。打ってくれ!
WAKUWAKUさせて 苦笑
中山美穂ね。今歌詞を初めて聴いた笑 なかなか良いねえ。
そういえば、なぜかなにかにひっかかってモヤモヤしてるときは、小林秀雄のことなど頭から離れていてその本を読むことなんて端から頭にない。自分の中である結論が出た後で、たまたま小林秀雄の本を読むとだいたい答えが書いてあったりする。
世の中にある格言っていうのはみなそういうもので、それが問題になっているときにはその格言のことなど考えもしないし、実際にそれを目にしたとしても目は字の上を素通りするだけで、心の中に落ちてはこない。コトが終わったあと、「ぬなっ?そうであったか」とハタと膝を打つわけで、正直現場では役に立つことはない。
それがわかっていても、なんだか読んでしまう。なぜなんだろう?
昨日考えたことも、もうすでに何度も読んでいる小林秀雄の本の中にあった。即ち、
優れた芸術は、常に或る人の眸(まなざし)が心を貫くが如き現実性を持っているものだ。人間を現実の情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧(マニュアル)に過ぎない。人は便覧(マニュアル)をもって右に曲がれば街へ出ると教えることは出来る。然し、坐った人間を立たせることはできない。人は便覧(マニュアル)によって動きはしない、事件によって動かされるのだ。強力な観念学は事件である、強力な芸術も亦事件である。
たとえば、よく人に説教を垂れたり、啓蒙をしようとしたりする人達がいる。芸術家だってそうであるし、ミュージシャンだってそうだ。演出家だってそうだし、もちろん脚本家だってそうだろう。そうでない人でも、例えば仕事で、部下に何かを教えようとするときはそうだし、クライアントを説得しようとするときだってそうだ。
事件か。ううむ、それはすごいなあ。ハードル高いというか、なんかそういう点で自己満足でしかない表現者っていうのは、ただかなしい存在でしかないんだよね。もっともその悲しさを売りにすることはできるけど、それは人をどうこうできるって話とは別。
しかも、事件を起こせるっていうのはその人の道義的云々なんて関係ない。おそろしいことに。善悪なんて越えちゃってたりもする。
それって怖い話であるけれど、なぜだかドキドキする。
てかワクワクしてえよな。だれだってそう思ってんだよ。高尚だとかそんな基準なんて意味ないというか、客にとってはたいした価値はない。
仕事の場合は、クライアントや部下を現実の情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧(マニュアル)に過ぎないってこと。ハードル高っ!笑 でもそれってあたりまえだよね。くっすー。頑張れおれ!
そういえば、なぜかなにかにひっかかってモヤモヤしてるときは、小林秀雄のことなど頭から離れていてその本を読むことなんて端から頭にない。自分の中である結論が出た後で、たまたま小林秀雄の本を読むとだいたい答えが書いてあったりする。
世の中にある格言っていうのはみなそういうもので、それが問題になっているときにはその格言のことなど考えもしないし、実際にそれを目にしたとしても目は字の上を素通りするだけで、心の中に落ちてはこない。コトが終わったあと、「ぬなっ?そうであったか」とハタと膝を打つわけで、正直現場では役に立つことはない。
それがわかっていても、なんだか読んでしまう。なぜなんだろう?
昨日考えたことも、もうすでに何度も読んでいる小林秀雄の本の中にあった。即ち、
優れた芸術は、常に或る人の眸(まなざし)が心を貫くが如き現実性を持っているものだ。人間を現実の情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧(マニュアル)に過ぎない。人は便覧(マニュアル)をもって右に曲がれば街へ出ると教えることは出来る。然し、坐った人間を立たせることはできない。人は便覧(マニュアル)によって動きはしない、事件によって動かされるのだ。強力な観念学は事件である、強力な芸術も亦事件である。
たとえば、よく人に説教を垂れたり、啓蒙をしようとしたりする人達がいる。芸術家だってそうであるし、ミュージシャンだってそうだ。演出家だってそうだし、もちろん脚本家だってそうだろう。そうでない人でも、例えば仕事で、部下に何かを教えようとするときはそうだし、クライアントを説得しようとするときだってそうだ。
事件か。ううむ、それはすごいなあ。ハードル高いというか、なんかそういう点で自己満足でしかない表現者っていうのは、ただかなしい存在でしかないんだよね。もっともその悲しさを売りにすることはできるけど、それは人をどうこうできるって話とは別。
しかも、事件を起こせるっていうのはその人の道義的云々なんて関係ない。おそろしいことに。善悪なんて越えちゃってたりもする。
それって怖い話であるけれど、なぜだかドキドキする。
てかワクワクしてえよな。だれだってそう思ってんだよ。高尚だとかそんな基準なんて意味ないというか、客にとってはたいした価値はない。
仕事の場合は、クライアントや部下を現実の情熱に導かないあらゆる表象の建築は便覧(マニュアル)に過ぎないってこと。ハードル高っ!笑 でもそれってあたりまえだよね。くっすー。頑張れおれ!
一杯のかけそば
山田太一氏と河合隼雄氏の対談が、河合隼雄対話集『こころの声を聴く』の中にあり、その中で「一杯のかけそば」に言及しているところがある。
河合:たしかに現実がものすごく薄っぺらになってしまってますね。
山田:テレビドラマなんかを例にとってみても、ちょっと考えたらこんなばかな話はないというようなものが猛烈に高視聴率をとったりする。戦中、戦後、芋を買うことに苦慮して、農家のおばさんがどういう態度をとったら売ってくれるかということを考えたときのわれわれはもっと人間について知っていたという気がするのです。そういうことも含めて現代は非常に安っぽく、薄っぺらになってしまったということです。
河合:その薄っぺらな方の頂点でみんなをパッと引き付けたのが、『一杯のかけそば』みたいな作品ではないですか。
山田:あの程度の作品に感動されると、多くの方々の感動を一応目指しているテレビに関わる人間としては、「エッ、こんなことで感動してしまうの」とちょっとしたショックがありますね。
河合:いろんな分野で安直というか、そうした兆候は見られますね。
うーむ、なるほどねえと思ってたのだけど。
「一杯のかけそば」の話自体は知っていたのだけど、その顛末をよく知らなくてさっきそれについての記事を読んだ。
(20)タモリの一言でブーム終焉となった「一杯のかけそば」 - ゲンダイネット(
クリックで飛びます)
そういうことかと。ん?でもまてよ、この河合隼雄対話集は平成七年(1995年)発行。なので対話が行われたのはせいぜいその2、3年前だろう。つまり時期的に既にタモリが看破し、しかも作者の虚言癖とその不祥事が明るみになってブームが終焉したはるか後での対談であって。そう考えると、1988年当時山田太一氏(もしくは河合隼雄氏)がこの対話の文言の通り思ってたのかというのはどうなんだろと。そうだとしても、後追いで言われても。
あるいは、日本の当時の「一杯のかけそば」に対する熱狂ぶりからすると、たとえ戦中、戦後であれ、農家のおばちゃんを騙すためにこれと同じような話をねつ造して芋を手にできたんじゃないかとも思える。今震災後の状況を見ても、それほど日本人が変わったとも思えない。
うまいことオレは山田太一氏に騙されていたのか。
ところで、この話の本質は別のところにある。なぜ、こういうことを知っていても、たとえ時代が変わっても、毎度毎度同じように単純な話に涙するんだろうと。マンガもしかり。たとえば今だと『ワンピース』だとか。
自分はいままでそういうのをバカにしていて、あたかもこの山田太一氏が語るような複雑な話のほうが高級で優れていると思っていたのだけどほんとにその考え方は正しいんだろうかと。
苦しいときほど、人はなにかに騙されやすいとか。
だからこの山田太一氏やタモリ氏のような警鐘が必要なのだけれど、ほんとにそれだけで問題が解決するのかと考えると今の状況みててもそうではないというか。頭でわかっていることと実際に生きる上での感情ってやはり違う。その違うことにこそ、真実があるような気がするし、さらに言えば、生きる上でその人の本当に力になることっていうのは、単純な話のほうにこそあるような気が最近してきて。
なんてことを、アンチテーゼ的に園子温氏がぶつけているような気がして、それで彼の作品に最近引っかかってよく見ていたのだと思う。なぜ、彼の作品ばかり最近気になるのかわからなかったけれど、そういう揺り戻しが自分の中に起こっているんだと今気付いた。
いいんじゃねえのかと。真っ直ぐで。
苦しいときほど、真っ直ぐでいいんじゃねえのか?
自分が信じたいものを信じればいい。ただそれだけ。
それぞれの人の中にだけしか、その人の真実はないわけだし。
黒澤明氏の映画『羅生門』の終わり方にも、ずいぶん長い間納得がいかなかったのだけど、黒澤氏が最後に言おうとしてたのは実はそういうことなんじゃなかったのかと。たった今そう思えるようになった。シンプルに。ただ自分にシンプルに。
ちなみに山田太一氏の『岸辺のアルバム』(1977)を見ると遥か以前の段階でこういう「一杯のかけそば」的な安易な人情話を全否定しているのはわかるのだけれど笑 だから確かにそう思ってたに違いはない。ただ、『岸辺のアルバム』が、ほんとうに見てる人の生きる糧になったのかっていうのは、また別の話なんだよなと思うのである。「そんなことわかってるんだよ」と。そういう声がやっぱりさ、『ワンピース』を一生懸命読んでるコから聞こえてくるのだよね。そしてそっちの声のほうが真実くさいのだ。
河合:たしかに現実がものすごく薄っぺらになってしまってますね。
山田:テレビドラマなんかを例にとってみても、ちょっと考えたらこんなばかな話はないというようなものが猛烈に高視聴率をとったりする。戦中、戦後、芋を買うことに苦慮して、農家のおばさんがどういう態度をとったら売ってくれるかということを考えたときのわれわれはもっと人間について知っていたという気がするのです。そういうことも含めて現代は非常に安っぽく、薄っぺらになってしまったということです。
河合:その薄っぺらな方の頂点でみんなをパッと引き付けたのが、『一杯のかけそば』みたいな作品ではないですか。
山田:あの程度の作品に感動されると、多くの方々の感動を一応目指しているテレビに関わる人間としては、「エッ、こんなことで感動してしまうの」とちょっとしたショックがありますね。
河合:いろんな分野で安直というか、そうした兆候は見られますね。
うーむ、なるほどねえと思ってたのだけど。
「一杯のかけそば」の話自体は知っていたのだけど、その顛末をよく知らなくてさっきそれについての記事を読んだ。
(20)タモリの一言でブーム終焉となった「一杯のかけそば」 - ゲンダイネット(
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そういうことかと。ん?でもまてよ、この河合隼雄対話集は平成七年(1995年)発行。なので対話が行われたのはせいぜいその2、3年前だろう。つまり時期的に既にタモリが看破し、しかも作者の虚言癖とその不祥事が明るみになってブームが終焉したはるか後での対談であって。そう考えると、1988年当時山田太一氏(もしくは河合隼雄氏)がこの対話の文言の通り思ってたのかというのはどうなんだろと。そうだとしても、後追いで言われても。
あるいは、日本の当時の「一杯のかけそば」に対する熱狂ぶりからすると、たとえ戦中、戦後であれ、農家のおばちゃんを騙すためにこれと同じような話をねつ造して芋を手にできたんじゃないかとも思える。今震災後の状況を見ても、それほど日本人が変わったとも思えない。
うまいことオレは山田太一氏に騙されていたのか。
ところで、この話の本質は別のところにある。なぜ、こういうことを知っていても、たとえ時代が変わっても、毎度毎度同じように単純な話に涙するんだろうと。マンガもしかり。たとえば今だと『ワンピース』だとか。
自分はいままでそういうのをバカにしていて、あたかもこの山田太一氏が語るような複雑な話のほうが高級で優れていると思っていたのだけどほんとにその考え方は正しいんだろうかと。
苦しいときほど、人はなにかに騙されやすいとか。
だからこの山田太一氏やタモリ氏のような警鐘が必要なのだけれど、ほんとにそれだけで問題が解決するのかと考えると今の状況みててもそうではないというか。頭でわかっていることと実際に生きる上での感情ってやはり違う。その違うことにこそ、真実があるような気がするし、さらに言えば、生きる上でその人の本当に力になることっていうのは、単純な話のほうにこそあるような気が最近してきて。
なんてことを、アンチテーゼ的に園子温氏がぶつけているような気がして、それで彼の作品に最近引っかかってよく見ていたのだと思う。なぜ、彼の作品ばかり最近気になるのかわからなかったけれど、そういう揺り戻しが自分の中に起こっているんだと今気付いた。
いいんじゃねえのかと。真っ直ぐで。
苦しいときほど、真っ直ぐでいいんじゃねえのか?
自分が信じたいものを信じればいい。ただそれだけ。
それぞれの人の中にだけしか、その人の真実はないわけだし。
黒澤明氏の映画『羅生門』の終わり方にも、ずいぶん長い間納得がいかなかったのだけど、黒澤氏が最後に言おうとしてたのは実はそういうことなんじゃなかったのかと。たった今そう思えるようになった。シンプルに。ただ自分にシンプルに。
ちなみに山田太一氏の『岸辺のアルバム』(1977)を見ると遥か以前の段階でこういう「一杯のかけそば」的な安易な人情話を全否定しているのはわかるのだけれど笑 だから確かにそう思ってたに違いはない。ただ、『岸辺のアルバム』が、ほんとうに見てる人の生きる糧になったのかっていうのは、また別の話なんだよなと思うのである。「そんなことわかってるんだよ」と。そういう声がやっぱりさ、『ワンピース』を一生懸命読んでるコから聞こえてくるのだよね。そしてそっちの声のほうが真実くさいのだ。