護身柔術の道/愛喜道/aikist
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護身柔術心得

護身の要は『覚悟』なり

悟りの覚醒なり

外に発せず、内に悟るのが
仏道の大悟なれば

護身武道の大悟は内に悟りて外に発っし行動する事なり

これを動禅と云う人あり

武士道にありては、『覚悟』と云う死生観なり

『死ぬ事と見つけたり』とは
この『覚悟』の事なり

『覚悟』あれば心落ち着き、腹据わり、常の力にて施せるものなり


向井流水法と会津日新館

『文化七年(1810)二月二六日、幕府は江戸湾防備の為、会津、白河の両藩に海岸へ砲台構築と防備を命じ、翌年には浦賀、走水、城ヶ島また陣営を平根山、浦賀観音崎、走水三崎北條山に設けた。文化九年六月五名が藩命を受け、江戸で向井将監正直の門に入り、文政元年(1818)九月それぞれ免許皆伝され会津藩の水業は向井流水法が定着し、日本最古のプールが藩校日新館にある(周囲160m)水馬池で水練を行った。しかし戊辰戦争で消滅したかと思われた、会津の水業が旧藩士大竹作右衛門氏が小樽で伝承し、小樽の向井流水法会の皆様の協力で復活に至る。』とある。

この事から、西郷四郎の泳法は向井流だったと推測される。つまり、戊辰戦争で藩の流儀としては失伝したが、生き延びた会津藩士の誰かが西郷に水練を教えたとすれば向井流であった筈、更に、講道館代表として戦った四郎の相手の戸塚楊心流(は向井流を併伝していた)の師範も向井流の師範であり、親しかったと云う話は真実だろう。

『秘伝』には向井流は一度も江戸を出なかった流派とあるが幕府が湾岸警備の際に会津、白川の両藩の五名に藩命により向井流を習得させた事実が、何故闇の中に、失伝の理由は負け戦?日新館の消滅?、日新館の水練が向井流になったのは幕末、それ以前の日新館の水練は何流だったのか?

四郎は九州で水練を教えた、明治になり向井流は北は小樽、南は福岡に伝承された事になる。


中学校の授業としての柔道のあり方

過去28年間で中高での柔道事故による死亡者は114人、障害は275件以上といわれています。死なずとも脳に障害を負い寝たきりとなれば青少年にとっては死ぬより辛い人生を強いられる事となります。

全ては柔術が柔道として学校教育に取り入れられる条件として競技化が課題とされた為なのです。それは剣道も合気道も同じ事ですが、乱取り重視となり、武道から形稽古が消滅していきました。同時に教育としての武道に一番大切な筈の精神性も失われていったのです。

数多の流派に於いて一番最初に教えられる形にその流派の一番重要な要素が含まれているものです。
ですから、奥の奥まで修行を積むとまた最初の技に回帰すると言われるのです。

形稽古で事故が起きる可能性は極めて低く、技の理合いを理解する為の最良の方法なのです。
武道の本質は護身です。
自分の身を守る事が
相手の身をも守る事になると
悟る事が最終目的です。

相手を傷つけずに制圧し、罪を犯させないと云うのが本旨です。

武には位と云うものがあります。位の違いによって相手に戦いを挑ませない、つまり位負けで戦意喪失と云う訳です。

更に言えば、相手に敵愾心を起こさせないような自分を形成する事にあります。

構え一つ、型一つにも、このような精神性が隠されているのです。

嘉納は乱取りこそが上達への近道だと確信したのでしょう。
然し、晩年になって急がば回れが正道だと気付いたはずですが、その頃にはもう柔道は嘉納の手を放れ一人歩きを始めていたのです。








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