何かを実現しようと考えたとき、いろいろ必要な要素を思い浮かべることはできますが、なかでも「環境」というのはかなり重要度の高い要素だと思います。

 

たとえば、有名な勝間和代さんは「収入は環境が9割」ということを指摘しています。環境至上主義の考えに立つと、ときに

収入は環境で決まる。努力や勉強ではなく、環境のせいであり、周りの理解がないから。あなたは自分を責めなくていい。

とまで語られることもあります。意識(マインド)を高く持つとか、努力が大事とする人からすれば他力本願で、うまくいかないときに自分の責任ではなく周囲にその原因があると他責思考に流れてしまい、自己研鑽から逃げることになるので「環境が9割」なんて考え方は良くない、とする人も多いことと思います。しかし「朱に交われば赤くなる」ということわざもあります。自分という同じ人間が環境によってずいぶんパフォーマンスが変わったなと感じる経験が私にもあり、環境は馬鹿にできないと思っています。

 

中学時代の話です。1年生のとき、私は横浜市南部の地元の公立中学校に通っていました。1学年5〜6学級くらいの規模の、普通レベルの学校だったと思います。当時の中学では1から5段階の相対評価で成績づけされてましたが、自分の成績は科目によって2〜4くらいのごく普通のレベルでした。

 

中学2年生・3年生のとき、父親の海外転勤に合わせる形で、我が家は韓国のソウルに引っ越すこととなりました。ソウルには日本人学校があり、そこの中学部に転校することとなりました。当時15-6人くらいの同学年の学級は成績優秀な子が多く、とくに英・数・国の3科目については毎日、実際の高校入試問題などを織り交ぜた宿題プリントが課されていたのですが、クラスの全員がほぼ満点で返されるといった具合でした。成績づけは、相対評価では日本の標準的な学校での成績評価と整合しなくなるために、先生からみて「もし同じ子が日本の標準的な学校で相対評価を受けだとしたらこのような評価となるであろうと推定される」絶対評価が行われていました。特に他と比べて特別に努力したとか意識も高かったわけでもない私でしたが、優秀な周りの仲間に引っ張られるように、成績は4〜5くらいの水準になっていました。帰国してからは、みな偏差値にして75〜60くらいの高校に進学していたので、絶対評価であったとはいえ学力評価は正当に行われていたと思います。

 

自分という人間は変わらないのに、学校という環境が変わっただけでずいぶん学力のつきかたが変わるもんだなと実感したのです。次回は社会人になってからの経験について書いてみたいと思います。