「ポジティブな諸行無常」
私がカマル先生に抱くイメージです。
誰かの事を観察する時は必ず自分の色眼鏡を通して見ています。
偏見だらけかも(´Д` )
不自然なくらい何事にもdetachに見えるグルジ。
以前、「グルジは何にもattachmentしてないでしょ。」
と本人に聞いてみました。
そうだと言われましたが、
この時の私はattachmentを「執着」くらいの意味で使っていました。
さっき辞書で調べたら
「…への»愛情, 愛着; 献身, 忠誠«to, for»; 愛情のある関係」
へぇ。「執着」なんて言葉は一言も無くてビックリ。
attachって言葉、今までかなりマイナスな意味でしか使っていませんでしたが、献身とかかなり良さげに聞こえる言葉。
今さら英語のお勉強。
Attachmentの反語はdetachment、つまり「無関心」だそうで。へぇー。日本語で「愛の反対は無関心」と良く聞きますが、実際に辞書でもそうなんだ。と始めて確認してちょっと感動。色々再確認。
先生、本当にさっぱりとしているとゆうか、執着しないようにしていると見えます。
例えば人付き合い。
誰とでも一定の距離を保ち、いつでも簡単にお別れ出来る状態にしているように見えます。
本当は誰でもお別れがあるのでこれって当たり前ですが、実際は難しい。
一般的によくある、
誰かに愛着があって一緒にいれる時間を深く望んでいたとして。叶わなかった時に自分は残念で寂しいのに相手はケロっとしていたら。なんとなく不服な気分になる。
「愛着」が「執着」に変わる瞬間。
もしくは誰かの為に、献身に何かをした時。
相手がそれに盛大に感謝してくれないとこれも不服になるもの。
日本人じゃなくとも「義理」とか「人情」に気を向けると相手にそれを求めて不服になりがちかも。
グルジは割りとあっさり。
成功すれば「良かった。」
上手くいかなければ「残念。」
それでお終い。以上。
あっさり。
そんなイメージ。
少なくとも、外的には日頃それ以上表に出しません。
人にも、事にも、執着しない。
そこにある、その瞬間だけを一生懸命生きている。そんな印象です。
これって、実はかなりヨガ的。
全ての「愛着」を手放して、本質のみを知るのがヨガの大きな目的の一つ。
だとしたら、ヨガってとても冷たいかも。
人間だもの。
誰かを愛したり、誰かに心動かされたり、誰かと深いパートナーシップを築きたいですよね。
あまりに周りに無関心だと冷たい人の印象抱きませんか?
私自身は今ヨガの勉強に夢中なのでそれどころじゃありませんが(・・;)
私にとってカマル先生は今のグルジだけど、いつお別れするか分からない存在。だからattachしないようにと、ずっと気を付けていました。
依存しないようにと壁を作って聞き逃していましたが、実は私個人に向けて何度も何度も親身にアドバイスを下さっていました。不自然に距離を置こうとして向き合っていなかったのは私の方?と、後から気付きました。グルジは私が思ってる以上に私の事を生徒として受け入れてくれていたようで。
ちゃんと生徒個人に深く向き合って下さる姿はリシケシでも何度も見ていたのに忘れてた。attachせずに深く付き合うなんてどうやるの?
必死で向き合った相手でも、離れる時が来たらあっさり離れる。
離れるのが分かっていても、その瞬間は一生懸命。
まだ今の私には出来ません。
それが出来ないので、始めから距離を置いておく私。
諸行無常。
その中で、自分の感情をコントロールしながらどれだけ真っ正面から向き合えるか。
しばらくの私の課題です。