《2025年4月20日》ータロとジロ | aichanの双極性日記

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タロとジロといえば映画『南極物語』を思い出す人が多いだろう。

 

タロとジロについてネットで調べてみたら、以下のようなことがわかった。

 

第1次南極観測隊は、1956年(昭和31年)、総勢53名で実施された。

 

タロ、ジロを含む22頭の樺太犬とともに東京湾より南極観測船「宗谷」で南極へ出発した。

 

宗谷には、暑さに弱い樺太犬たちのために、赤道越えのための冷房室が特別に用意されたという。

 

昭和基地に到着すると、病気などでそのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、1957年の第1次越冬隊において犬ぞり引きなどに使役された。

 

越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。

 

また雌のシロ子はジロなどとの間に8頭の子を産んだ。

 

そもそも樺太犬が南極に連れていかれたのは、南極大陸には分厚い氷の層があって、いたるところにクレパスがあり、雪上車では危険だと判断されたためだった。

 

クレパスは雪に覆われて見えないものだが、犬はクレパスのあるところを察知する能力を持っていることから、雪上車ではなく犬ぞりを使おうということになったからだ。

 

それで北海道の稚内や利尻島などで飼われていた樺太犬に目がつけられ、彼らは南極に連れていかれたのだ。

 

樺太犬は寒さに強く、犬ぞりに利用されることもあったため南極観測隊は樺太犬を集めることにした。

 

1957年(昭和32年)12月、第2次南極観測隊宗谷が南極付近に到着した。

 

昭和基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷は第2次越冬隊を乗せていた。

 

しかし、近年稀にみる悪天候にみまわれ、宗谷は昭和基地には到着できなかった。

 

宗谷は46日ぶりに外洋への脱出に成功し、アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド」号と会合した。

 

支援を受けて密群氷に再突入した。

 

2次隊隊員3名が先遣隊として昭和基地に到着したが、天候の悪化により空輸が困難となった。

 

天候はますます悪化し、「バートン・アイランド」号自体の氷海脱出も危うくなった。

 

2次隊の永田隊長から、いったん外洋に出てから天候が回復しだい再進入する計画なので3名は宗谷に戻るように指示したが、3名は、第1次隊が残した食料と樺太犬がいるので再進入の計画があるならばこのまま越冬準備を続けたい、万一再進入できなくても3名での越冬も十分可能であることを強く訴えた。

 

しかし永田隊長から、「3名を収容して外洋に出るのは『バートン・アイランド』号艦長の至上命令であり、気象的にも空輸の可能性はあと1便しかない。越冬には樺太犬が必要なので野犬化したり、共食いしたりしないよう、必ず鎖につないだまま帰船してほしい」と命令が出された。

 

「バートン・アイランド」号艦長の命令では従うしかなかった3人は、南極生まれの子犬8頭とその母犬のシロ子はなんとしても連れ帰ることにした。

 

15頭の犬の食料2ヵ月分を分配した後、迎えにきた昭和号に子犬8頭とシロ子とともに昭和号に乗り込んだが、荷重超過で機は離陸できなかった。

 

不時着用の燃料と食料を降ろすという整備士の機転によって帰船することができたが、15頭の犬は首輪で昭和基地付近につながれたままにされた。

 

南極本部より第2次越冬・本観測を放棄せよとの命令が下り、計画を断念し、第2次越冬隊の派遣は断念された。

 

それとともに15頭の犬の救出も見送られ、残された犬たちの生存は絶望視された。

 

南極に犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。

 

1959年(昭和34年)、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和基地に2頭の犬が生存していることが確認された。

 

着陸すると駆けてきて操縦士に寄ってきたのはタロとジロだった。

 

〈生存していたタロとジロ〉

 

厳寒の南極で1年間もどうやって生きていたかは不明である。

 

残る十数頭の樺太犬を隊員たちは探したが、7頭の死骸が発見されただけで、あとはわからなかった。

 

タロとジロの生還は日本中に衝撃と感動とをもたらした。

 

2頭をたたえる歌が作られたり15頭の樺太犬記念像が東京タワーに設置されたりした(2013年に立川市の国立極地研究所へ移転)。

 

タロは1961年から1970年まで札幌市の北海道大学植物園で飼育され、1970年(昭和45年)8月11日に老衰のため14歳7ヵ月で亡くなった。

 

人間でいえば約80~90歳という天寿を全うしての大往生であった。

 

死後は同園で剥製として展示されている。

 

またタロの血を引く子孫の犬が日本各地に散らばっている。

 

ジロは第4次越冬中の1960年(昭和35年)7月9日昭和基地で病死した。

 

5歳だった。

 

ジロの剥製は東京都台東区の国立科学博物館に置かれていたが、極地で病死した状態から剥製にされたこともあって損傷が激しいという。

 

樺太犬たちを南極に残したまま(しかも首に鎖を付け、2ヵ月分の食糧しか置かず)宗谷は帰国したのである。

 

だったら日本政府は、すぐにでも別隊を南極に派遣し(船がなければ外国から借りてでも)、樺太犬たちを迎えに行くべきだったろう。

 

「たかが犬」という意識が当時の政治家たちにあったに違いない。

 

現代だったら、全世界から大非難を浴びるような非情な措置だったと言わざるを得ない。

 

 

【ダイエット記録】目標達成体重より+0.4キロ。