日本語の文章を欧米語に翻訳する場合、直訳すると意味が通らなくなることが多々ある。
例えば「あなたは何色の花が好きですか?」という質問に「私は黄色です」と答える文章があるとしよう。
この回答を欧米語で直訳すると「私はモンゴロイド(黄色人種)です」ということになってしまう。
また、こういう例もある。
「彼は美術を専攻した。美術が得意だったからだ」
これを欧米語に訳すとしたら、訳者は「美術が得意だったからだ」の主語は誰なのかと執筆者に聞くことになる。
村上春樹の作品は多くの国で翻訳され出版されている。
村上春樹はエッセイの中で、訳者によく「この文章の主語は何なんだ?」と聞かれると書いている。
なぜこんなことが起きるのかというと、日本語では主語がなくても通じる場合が多々あるからだ。
今、「主語」という言葉を使った。
しかし、日本語には欧米語でいう「主語」はないと考える国語学者が増えている。
彼らは欧米語で主語に当たるものを「主格」と呼んでいる。
日本語には「主語」はなく「主格」があるのだ。
冒頭に書いたような「私は黄色です」の主格は「私」である。
しかし、それに続く格助詞の「は」は「についていえば」といった意味であり、その点が欧米語とずいぶん違う。
ついでに「私が黄色です」という文章があった場合、この「が」はどういう意味か考えてみよう。
「私は黄色です」の「は」とは明らかに何か違う。
これこそ「主語」ではないかと思うかもしれないが、それは違う。
欧米語に直訳すれば「私がモンゴロイドです」になるにすぎない。
では、何が違うのか。
「私は黄色です」の場合は、他の人は知りませんが私が好きなのは黄色です」という意味だ。
それに対して「私が黄色です」の場合は、そもそもの質問が「あなたは何色の花が好きですか?」ではなく「黄色い花が好きなのは誰ですか?」という質問に対する回答だと考えたほうがいい。
また、「が」の多くは「の」に書き換えられる。
「彼が好きな花」は「彼の好きな花」と言い換えられるし、「私が愛する人」は「私の愛する人」に言い換えられる。
このように、「が」と「は」は使い方がまったく違う。
私たち日本人はそれを無意識に使い分けている。
この格助詞の用法は現代韓国語にもあるという。
古代日本語は朝鮮半島の南部や南西部にあった伽耶や百済の言葉の影響を強く受けたので、その名残ではないか。
ついでに、逆接の接続詞的な使い方をされる「が」についても書きたい。
「私は老いているが、元気だ」
と言えば、「私は老いている。しかし元気だ」という意味だ。
つまり、この「が」は逆接の接続詞的な使い方をされている。
ところで、こういう文章がよく見られる。
「私は老いているがゆっくり歩く」
これは「私は老いている。しかし、ゆっくり歩く」という意味ではない。
「私は老いている」という文章と「ゆっくり歩いている」という文章をくっつけているだけだ。
この「が」を使う文章が氾濫している。
私もたまに使う。
便利だからだ。
しかし、逆接の接続詞的と勘違いされると困るような場合には使うべきではないと思う。
また、「日本に生まれた私だが、アメリカに行きたい」といった文章もよく見る。
この「が」の使い方にも私は疑問を持っている。
「私は日本に生まれたが、アメリカに行きたい」と、なぜそう素直に書かないのかと思ってしまうのだ。
上記の文章の場合、たぶん「私」が日本に生まれたことを強調したいから「日本に生まれた私だが、アメリカに行きたい」という書き方をしてしまうのだろう。
しかし、「私は日本に生まれたが、アメリカに行きたい」でも十分に意図は通ると思う。
奇を衒(てら)うような変な「が」の使い方はやめたほうがいい。
ちなみに、私は原田マハの文章は一級品だと思っているが、残念なことにこの「だが」を多用する。
とてもとても残念だ。
さらについでに、「です」と言うべき(書くべき)なのに「になります」と言う(書く)変な習慣について書いておく。
スーパーなどで例えば「味噌はどこにありますか?」と店員に聞いたとしよう。
すると店員は味噌売場に連れていってくれ、「こちらになります」と言うことが多い。
「こちらです」でいいではないか。
なぜに「こちらになります」なのか。
日本語としてもおかしいし、感覚的にもおかしい。
丁寧に言う(書く)つもりでそう言う(書く)のだろうが、おかしいものはおかしいので、「になります」はやめたほうがいい。
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