〈母。なくなる少し前の写真〉
私の母は結婚前に父とは違う男の子を産んだ。
父はそれでもいいと言って母に情熱的にプロホーズした。
その根気に負けて母は連れ子を伴って父のところに嫁に来た。
父は仙台でテント屋を経営していて、その会社は父の実家の片隅にあった。
そのずっと裏の敷地を父は親からもらい、そこに新婚のための小さな家を建てた。
父の実家は旅館だった。
母は毎朝早くに起きて旅館に行って手伝い、夜遅くまで家族や客の炊事・洗濯などに追われた。
私を孕(みごも)っても母は旅館の手伝いを続けた。
私が生まれたら私をおぶって旅館の手伝いをした。
連れ子だった私の姉はいつも置き去りだった。
それだけでなく、父は自分の子ではない私の姉にいつもつらく当たった。
私が生まれたころのアルバムが私の手元にある。
そこには、写真館で撮ったと思われる私の写真しかない。
姉の写真は一枚もない。
一緒にいたはずなのに父は姉の写真は撮らなかったのだ。
父はそれほど私の姉を遠ざけていた。
悩んだ母は私の姉を実家に預けた。
それから数年後、小学生になった姉は、仙台から遠い石巻の夫婦のもとへと引き取られた。
養女に出されたのだ。
そのころの母は重い腎臓病にかかっていて、しばしば入院するほどだった。
そこで知人に信仰を勧められた。
創価学会だった。
母は知人の話を聞いて創価学会に飛びついた。
それ以後、母は創価学会一途の人になった。
父は創価学会が大嫌いで、それでふたりはよく喧嘩した。
また母は結婚前の男と持たせ地とよく会っていて、そのことを察した父が興信所を使って母の素行を調べては男たちと会っていたことを突き止め、母を打擲(ちょうちゃく)するようになった。
しかし母は昔の男友達と会うことを続け、創価学会の信者としても力を入れた。
それでまた父と喧嘩になる。
母は負けなかった。
しかし、そんな母でも現状に満足していたわけではない。
私が小学生のころ、食卓に座り、よく家計簿を付けていた。
おやつで食卓テーブルに私がつ座れると、よく少女時代の話をしてくれた。
母は生まれて間もなく満州に渡った。
そこでは冬になるとあちこちに天然のスケート場ができるそうだ。
すると朝鮮の人や中国人たちが母の゜家を訪れてはみんなでスケート靴を持って滑りにいったそうだ。
そんな話を、遠くを見るような目で母はよく話してくれた。
「ああ、少女時代に戻りたいんだなと、幼いながら私は感じた。
結婚したものの連れ子を養女に出さなければならなくなったり、信仰のことで父と争う毎日が嫌になっていたのだと思う。
(このあたりまでは、『Zensoku Web』の「喘息の吐息」の「小説・柿の木旅館」、ブログ〈Zensoku Web〉の「小説」の「小説・柿の木旅館」に書いている)
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もう晩年となったとき、母は父と離婚した。
結婚したままでは父の家の墓にお骨が入れられると恐れたからだ。
創価学会は日蓮の創始した宗派の一派である日蓮正宗(しょうしゅう)の信徒団体だ。
母は日蓮正宗、あるいは創価学会の墓地に葬られることを望んでいた。
それで無理やり離婚したのだ。
そして創価学会の作った墓地を買った。
母の気持ちはわかる。
私がまだ幼少のころ、母は私を日蓮正宗に入信させ、創価学会に入れた。
私は20歳になるくらいまで、だから創価学会員だった。
選挙で創価学会員が動員され働くのを見て、「政教分離なのにこれでいいんですか?」と学会の幹部に尋ねた。
するとその幹部の上の幹部が私を呼び出し、選挙は創価学会の目指す理想社会を作るために必要なことだと言った。
そこまでは理解できたが、さらに幹部がこう言ったのには興醒めした。
「選挙で候補を応援するとき題目を唱える。そうすれば功徳が得られる」
こいつらは偽善者だと思って私は学会を退会した。
しかし母は違った。
死ぬまで創価学会を信じつづけた。
それで父と離婚してまで創価学会の墓に入ることを望んだ。
晩年の母は重度喘息になって酸素ボンベが手放せなくなっていた。
それで生活保護を受けて暮らしていた。
離婚した後、母は父に慰謝料を寄越せと裁判まで起こしたようだが、うまくいかなかったようだ。
母は父の経済力に頼る習性に慣れていて、生活保護背を受けてからも以前の生活を忘れられなかったのだろう。
最期は肝臓がんで死んだ。
直接的には肺炎か何かを併発して亡くなったみたいだが、それがなくとも肝臓がんで息絶えただろう。
そんな母の一生を思うとときどき哀しくなる。
でも、亡くななった母はやっと少女時代に戻れたのではないかと思う。
そう思うと救われる。
【ダイエット記録】0.1キロ増えた。あと-0.1キロだ。