《2024年3月23日》ー息子の難病と元妻の剣幕と娘のプロ級のケーキ作り | aichanの双極性日記

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私の息子は生後4ヵ月くらいのときに汎血球減少症という難病に罹(かか)った。

 

最初は風邪を引いたので近所の内科に連れていったのだが、医者はただの風邪と診断しただけだった。

 

しかし、診断のあとに年配の看護婦さんが息子の顔色を見て「血液検査をしたほうがいい」と言った。

 

その結果、白血球が異常に少ないことが判明し、即、大病院に移され、検査の結果、すぐ入院となった。

 

入院したのは隔離された個室だった。

 

白血球が異常に少なかったので感染症に罹りやすいということでそんな個室に入れられたのだ。

 

息子の白血球は入院してもどんどん減りつづけ、ついにはゼロになった。

 

次は赤血球が減少しはじめ、さらに血小板まで減りはじめた。

 

若い担当医はいろいろ検査したり北海道大学医学部の先輩に電話して聞いたりして息子の症状について考え、私たち夫婦に「息子さんは白血病かもしれません」と言った。

 

私たち夫婦は「が~ん」とショックを受けた。

 

汎血球減少症という難病だと診断されたのはそのあとだ。

 

「一生治らないかもしれません」と担当医は言った。

 

私たち夫婦はまた「が~ん」とショックを受けた。

 

見舞いは身内だけに限られた。

 

元妻は病室の長椅子に寝て毎日付きっきりで息子を看病した。

 

といっても暇なので彼女はゲームボーイでゲームばかりしていたが…。

 

夕方、勤務時間が終わると私は余った仕事をカバンに入れて毎日見舞いに行き、買ってきたコンビニ弁当を元妻に食べさせ、それから彼女をマンションに帰した。

 

風呂に入れさせるためだ。

 

その間は私が息子を看病した。

 

元妻がマンションから帰ってくると私はマンションに帰って晩飯を作って食べ、病室から持ち帰った息子と元妻の洗濯物(元妻の下着ももちろん含まれていた)を洗って干し、それから持ち帰った仕事を夜中まで続けた。

 

当時私は「ノーザンクロス」という編集老会社で編集長をしていて、さまざまな雑誌や企業の機関誌や年鑑などの企画・編集の仕事に携わっていた。

 

いずれも難しい仕事ばかりで、少ない編集部員だけではこなしきれないほど仕事量が多かった。

 

それで毎日残業になるのだったが、息子が入院してからは残業ができなくなったぶん、仕事を家に持ち帰って夜中まで仕事をしていたのだ。

 

そんな生活を4ヵ月くらい続けていたら、息子の症状が良くなってきた。

 

毎日、ステロイドの点滴を受け、骨髄液を抜き取られたり入れられたり、血液を全部入れ替えたりさせられたが、そのどれかが効果的だったのだろう。

 

そして退院して今に至る。

 

いま31歳だが、どうやら後遺症はないし再発の恐れもないようだ。

 

ちなみに、私は1回だけ仕事の途中で用があって見舞いにいったことがあるが、元妻が何かのはずみでそのことを会社の人間にしゃべった(元妻は実に口が軽い)。

 

すると社長はそれを問題視し、私に退職を求めてきた。

 

その社長は雇われ社長でオーナーは別にいた。

 

「ノーザンクロス」は「一般社団法人 北海道総合研究調査会(略称:HIT)」の子会社で、創設者はHITの幹部のそのオーナー(Tという名前だった)だった。

 

Tは私とは別の人間に編集長就任の依頼をしていて、私はその人がオーケーするまでの腰掛けにすぎなかったのだが、そんなことは私は聞かされていなかった。

 

就職してからずいぶん経ってそのことを社長から聞かされたとき、あまりにひどい暴挙だと思って、その会社に出勤するのが嫌になった。

 

それで1ヵ月ほど無断で欠勤しつづけた。

 

オーナーはもともと私をよく思っていなかったが、それで決定的に私を嫌うようになった。

 

さらに、その息子が難病に罹ったと知ると「そんな奴は辞めさせろ」と社長に命じた。

 

辞めさせるいい口実ができたと喜んだのだろう。

 

実は私もそのオーナーのことが嫌いで、私が就職するまでの編集長はオーナーとよく話し合って企画を決めていたが、私はろくに相談もせずに自分の判断で企画し編集していた。

 

それでオーナーは私を嫌うようになったのだ。

 

そんなころ私は急性肝炎になって1ヵ月ほど会社を休まざるを得なくなった。

 

それもオーナーの気に障ったらしい。

 

オーナーは私を無理にでも辞めさせるように社長に指示した。

 

社長は、私がかつて息子の入院する病室に勤務中に見舞ったことを取り上げ、「あれは服務規定違反だから」と言って私に退職を勧めてきた。

 

勤務日の昼休みにビールを飲むような社長だったのに、たかがちょっと見舞いにいっただけで「服務違反」とは何事だと私は腹が立った。

 

あまつさえ、私の同僚だった女性編集者が結婚するというので「その結婚式に出たい」と私が言うと、社長は「それは出せない。なぜなら秋山の人たちも来るからだ」と言った。

 

「秋山」というのは当時、札幌にあった薬の卸問屋の「秋山愛生館」のことで、その薬局向けの機関紙を私とその女性編集者とふたりで担当していた。

 

秋山愛生館の人々は私の企画をいつも気に入ってくれて、私はただの下請けだったが、いつも丁寧に応対してくれていた。

 

しかし私が急性肝炎になって休職してから女性編集者ひとりで担当するようになっていた。

 

秋山愛生館はひどく残念がったという。

 

なのに私がノコノコと結婚式に出席などすれば、秋山愛生館としては「なんだ元気なんじゃないか」ということになり、「それはまずい」と社長は言うのだった。

 

私は食い下がったが、社長はどうしてもダメだと言い張った。

 

それで私は頭に来てその会社を辞めた。

 

息子が難病で入院したと知ったときから社長は私を敬遠しはじめていた。

 

それもオーナーの指示があったからだろう。

 

私が担当していた取引先からは花束などが病室に届けられたが、社長や会社からは何の慰めもなかった。

 

そんなころ息子が退院したのだが、退院したばかりのときに元妻の両親が「どうしても興部(おこっぺ。オホーツク沿岸の小さな町)に住む両親(元妻の祖父母)にひ孫を会わせたい」と言ってきた。

 

私は大反対した。

 

興部まではクルマで6時間はかかり、退院したばかりの、しかもどうして治ったのかもよくわからない病み上がりの幼い息子をそんな遠くに連れていったらまた再発するのではないかと恐れたからだ。

 

元妻の両親も元妻もそんなことは気にしていない様子で、結局、息子は興部に連れていかれた。

 

元妻の祖父母はもう高齢で、元妻とその両親は死ぬ前にひ孫をぜひ会わせてやりたいという気持ちが強かったのだろう。

 

それで私は元妻の両親と仲が険悪になった。

 

ここまでは前置き(長いなあ)。

 

私は結婚当初から家事・炊事・育児を元妻と一緒に行っていた。

 

あるとき、私が夕食を作ることになり、私が持っていた何種類ものスパイスを混ぜてタレを作って片栗粉を絡ませて揚げた。

 

するとそれがケンタッキー・フライドチキンとそっくりな味になった。

 

揚げ方はケンタッキーに遠く及ばなかったが、味だけは偶然、ケンタッキーに似たのだ。

 

食べた元妻は「ケンタッキーと同じ味!」と心底驚き、その後、不機嫌になった。

 

彼女は家事を自分よりもうまくこなす私を当初からうとましく思っていたようで、私がケンタッキーとほぼ同じ味の唐揚げを作ったことで決定的に私を敬遠しはじめた。

 

それ以来、私が食事を作るのを元妻は嫌がるようになった。

 

あるとき、私の友達がうちを訪れ、「あいちゃん(私のあだ名)は家の中のことなんでもやるんだね」と感心した。

 

私は家事・炊事・洗濯・育児のどれでもやるよと答えた。

 

その友達が帰った後、元妻が怒った。

 

「あんなこと言ったらわたしが家で何もしてないみたいじゃない!」と。

 

それ以来、元妻は私が家事等をすると「やめて!」と言うようになった。

 

元妻は育児はちゃんとしたが、家事や炊事が苦手で上手にはできなかった。

 

洗濯はするが、他の家事、例えば掃除、食器洗いとかはほとんどしない(しても嫌々ながらやっているのが見え見えで実に手際が悪く、見ているとイライラしてくるほどだ)。

 

だから部屋の中はいつもホコリや髪の毛で汚れ、キッチンのシンクは汚れた食器でいつもいっぱいだった。

 

私が代わりに掃除や食器洗いなどをしようとすると、「やめてよね! わたしがやるから!」と私に手を出させない。

 

しかし元妻の家事嫌いは直らず、我が家の床や家具やシンクはいつも汚れていた。

 

料理も新婚のころは下手で手際が悪く、あとは酒のつまみというものを作ったことがない。

 

酒を飲むときはポテトチップかチーズかサラミだと考えていて、家で酒盛りをやるかとなるとすぐ近くのスーパーかコンビニに走る。

 

ポテトチップやチーズやサラミを買うためだ。

 

酒のつまみを手作りするという発想が彼女にはまったくなかったのである。

 

年月を経ても料理下手はあまり直らず、天ぷらなどを作ると衣に水を入れすぎて衣がほとんどない天ぷらがでたきたりした。

 

〈冬に家族でワカサギ釣りに行ったらたった4尾しか釣れなかった。それを元妻が天ぷらにしたら素揚げのようものになった〉

 

また元妻は大掃除のことをまったく知らなかった。

 

年末になり「さて、そろそろ大掃除だな」と私が言ったら、「オオソウジって何?」と聞いてきたのだ。

 

たぶん年末には友達と遊び歩いていて、家で母親が大掃除をやっている光景を見たことがなかったのだろう。

 

あるいは、元妻の母親も大掃除なんかしなかったのかもしれない。

 

それはともかく、家族の誕生日やクリスマスや正月や何かの記念日等の日だけは私がキッチンに入ることを元妻が許した。

 

それで私はそういう特別な日にはケーキを焼き豪華な料理を作った。

 

元妻のように洗い物をシンクにためることをせず、料理しながら鍋やフライパンやケーキ枠などを洗いながらケーキ作りや料理をした。

 

〈クリスマスなどのとき私は食卓をたくさんの料理で飾った〉

 

〈これは確か元妻の誕生日のときに作ったケーキ〉

 

〈このケーキは当時飼っていたシマリスの顔を模したケーキで確か娘の誕生日のときに作った〉

 

なぜ記念日等のときだけ元妻が私をキッチンに入れたのかはわからない。

 

私のほうが菓子作りも料理もうまかったので、それを知っていた元妻としては記念日のケーキや料理は私に作らせたほうがいいと考えたのかもしれない。

 

あとは、元妻は「親を安心させるためならウソをついてもいい」という考えの持ち主で、香港と広州に彼氏と旅行に行ったことや妻子のある男と付き合ったことなどの男性遍歴一切を親に隠していた。

 

彼氏のアパートに泊まるときは親友のアパートに泊めてもらうとウソを言って外泊したりもしていた。

 

そんな男性遍歴など私は知りたくなかったが、結婚前に元妻はそういうことを私にベラベラしゃべったので、相当遊んだ子なんだなと知った。

 

それらを一切知らない元妻の両親は元妻が私と結婚するとなったとき、「娘は処女で嫁に行く」と信じ込んでいた。

 

結婚してからも元妻は私によくウソをついた。

 

しかし口の軽いやつだったから、しばしばポロッと本当のことを言ったりした。

 

例えば私が42歳のとき元妻と喧嘩になり、元妻が家を出た。

 

私と子どもたちふたりを置いてひとりでアパートに住みはじめた。

 

そのとき元妻には付き合っている男がいた。

 

半年して元妻は戻ってきた。

 

男は妻子持ちだったので恋が実らなかったのだと私は思った。

 

私が彼女にそう言うと、「違う! わたしたちは今はただ離れているだけ!」と言った。

 

「ああ、まだ付き合っているんだ」と私にはわかった。

 

そういう奴だった。

 

と、まるで元妻の悪口みたいな話になったが、元妻にもいいところはあった。

 

家事類は大嫌いで、やるとしても嫌々ながらチンタラとしかやらなかったが、好きなことや得意なこととなったらそれこそ電光の如く動いて処理した。

 

例えば家族で旅行するなんてことになったら、旅行の大好きな元妻はたちまち旅行代理店に電話したり行ったりしてアッという間にプランをまとめ、荷物もさっさとバッグに納めてしまうのだった。

 

それから裁縫が得意だった。

 

新婚間もないころ、ミシンで何か縫っていた。

 

出来上がったのは私のパジャマだった。

 

こんなものまで作れるんだと私は心底驚いた。

 

最後に元妻のいい点を挙げると、毎晩のように寝た私の足元に座って私の足の裏を指圧してくれたことだ。

 

睡眠薬を飲んでもなかなか寝付かれなかった私でも、その心地よい指圧を受けるとうまく寝付けるのだった。

 

その指圧には今でも深く感謝している。

 

元妻にだって取り柄はあったのだ。

 

ところで、記念日等で私がお菓子や料理を作っていると、娘がそれを手伝うようになった。

 

それで娘もケーキを焼いたり料理を作ったりできるようになった。

 

〈娘が高校生のころ作ったクリスマスケーキ〉

 

いま娘は老人ホームの厨房で働いているし、以前はホテルの厨房でデザートを作っていたこともある。

 

娘の腕はプロ級にまでなっている。

 

娘は結婚して子どもができると、子どもの誕生日などには見事なケーキや料理を作る。

 

それらは私など及びもつかないほど見事なものばかりだ。

 

友達に子どもの誕生日用のケーキを作ってなどとよく頼まれ、それにたくさん応じている。

 

〈最近の娘の作品の数々。ジャスミンやエルザは、アイシングカラー(食用色素)を生クリームに溶いて色を作って描いたらしい〉

 

あれ、何が言いたかったんだっけ?

 

 

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