《2024年3月19日》ー父から受け継いだ私の宿命 | aichanの双極性日記

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私は今は北海道の千歳に住んでいるが、もとは仙台で生まれ仙台で育った。

 

小学生のころは勉強などしたことがなく、成績は悲惨だった。

 

私が5年生のとき、見かねて父は教科書ガイドという教師が持つものを買ってきて、それをもとに私に勉強を教えはじめた。

 

回答を間違うと父は私を殴った。

 

私は殴られまくり涙を流しながら父に勉強を教えられた。

 

その直後に行われた試験で私は優秀な点数を取った。

 

担任と生徒とたちは驚き、新学期になるとき私は学級委員に選出された。

 

私はそんな役職を受けるのはとてもじゃないが嫌だと思い、学級委員にされるのを拒んだ。

 

中学生に入るとき、私はこれからは予襲復習を毎日ちゃんとやることに決めた。

 

勉強すれば成績を上げることは容易だと知ったからだ。

 

私の入った中学校は宮城県第一の進学校である仙台市立五橋中学校だった。

 

学区内なのでその中学校に入ったのだが、入ってみるとその中学校の生徒の半分以上が越境入学生だった。

 

学区外から通う生徒が半分以上だったのだ。

 

県内各地の小学生たちのうち優秀な生徒が、優秀な進学校(高校)に進むために五橋中学校に入ってきたわけだ。

 

生徒数はものすごく多くて、体育館では収容しきれなく、当時あった宮城県民会館(今もあるのかな?)という大ホールで入学式が行われた(卒業式や合唱コンクールもそこで行われた)。

 

一学年で最高17組もある学校だった。

 

ひと組に50人以上いたから生徒数は一学年で数百人もいた。

 

五橋中学校はスポーツや合唱でも大会があるといつも県内で一番を取るという、文武両道の優れた中学校だった。

 

私は毎日予習復習をしていたので、試験では毎回、全生徒の中でトップに近い成績を収めていた。

 

特に予習に力を入れ、授業を受けなくてもいいくらいにまで知識を詰め込んだ。

 

その上に復習までしていたのだから、良い成績を取れたのは当然だったろう。

 

その中学校では中間試験や期末試験のほかに、高校進学のための予備校が催す試験を毎月、全生徒に受けさせていた。

 

だから毎月試験があり、毎日のように試験勉強をしなければならなかった。

 

その試験でも私はいつも上位の成績を取っていた。

 

担任はそんな私に大きな期待を寄せ、廊下で出会うたびに私は職員室に連れていかれ、「お前の学力なら医学部に行ける。医者を目指せ」とよく言われた。

 

私はその気になり、俺は医者になるんだと思ってより勉強に精を出した。

 

そして高校も宮城県第一の進学校である仙台二高に合格して入学した。

 

〈宮起源仙台第二高等学校〉

 

一年生から理科系と文化系のクラスに分けられ、私は理科が好きだったし医者になるつもりだったから理科系クラスに入った。

 

仙台二高は東北大学の予備校のような学校で、試験は東北大学の入試を真似た内容だった。

 

東北大学入試にならって一科目の試験時間は2時間で、それはいいとしても、習ってもいないことが問題に多く出ていて、それを解くには想像力を働かせて考えに考えるしかなかった。

 

例えば英文和訳の試験で出される英文には習っていない単語や言い回しがたくさん出ていて、前後の文脈や文章全体のおおよその内容からからその意味を想像して答案を書くしかなかった。

 

あるときの英文和訳の試験では、知らない単語や言い回しの多さに頭に来て、その英文を完全に無視して勝手な文章を書いた。

 

それも、笑えるような面白い文章にした。

 

そしたら点数は17点(200点満点)だった。

 

その答案に書いた私の文章を英語の教員が面白がって授業中にそれを大声で読んだ。

 

クラスじゅうが大笑いした。

 

そんなこともあり、最初の試験で私はクラスの中ほどの成績しか取れなかった。

 

何しろに仙台二高は宮城県内の各中学で1、2番だったやつらが入ってきているので、中学校でトップクラスの成績を収めていた私のようなやつばかりだったのだ。

 

クラスメストの5分の1くらいが医学部を目指していた。

 

予習復習をして教科書の内容を理解し、ちゃんと授業を受けるだけではこいつらには敵わないと私は気づいた。

 

たくさんの参考書を買って勉強するだけでなく、東北大学の過去問題集も買ってそれらを解く練習もし、さらには大学で習う知識も身に付けなければ到底ついていけないと悟った。

 

そう気づいたら勉強する気を失った。

 

私は東北大学に進学する気などまったくなく、東京の大学に進みたいと考えていた。

 

だから、東北大学の予備校のような高校で難しすぎる試験を受けることに苦痛を感じるようになっていて、勉強に身が入らなくなったのだ。

 

医者になるという希望も捨てた。

 

それ以後は予習復習をすることがまったくなくなり、それどころか授業をまともに受けることもなくなり、授業中は漫画を描いてばかりいた。

 

成績は下がる一方で、後ろから数えたほうが早い位置にまで堕ちた。

 

それで現役では東京にあるふたつの有名私立大学の入試に落ちた。

 

浪人するとき、私は理科系から文化系に変えた。

 

高校に入ってから、中学では得意だった数学と理科(特に物理)が不得意になり、代わりに中学ではあまり成績の良くなかった現代国語と社会(歴史・地理)でまあまあの成績を取れるようになった。

 

それなら理科系より文化系を受けたほうが有利だと考えたのだ。

 

私は予備校に入った。

 

ところがそのとき父と母が大喧嘩して、例のごとく私たち兄妹と母は実家を出てアパート暮らしになった。

 

母は働く気がまるでなく、これでは私が働かなくてはならないと考え、私は仙台で初めてピザを焼いたという深夜レストラン(「テキーラ」という店名だった)でバイトするようになった。

 

その店には毎日一定時間だけ生バンドが入って演奏し、プロの歌手が来て歌うこともあり、プロのピアニストはいつも来てピアノを弾いた。

 

客はそのピアニストに曲をリクエストて歌うこともできた(当時はカラオケ機器なんてなかった)。

 

そのピアニストは、聴いたことのない曲でも、客から歌い出しのメロディーを聴くだけで最初から最後まで伴奏してのけるのだった。

 

世の中にはすごい人もいるものだと私は深く感心した。

 

店は深夜12時に閉めるのだが、閉めた後に店長が簡単なオードブルを作って「お疲れさん!」とみんなで酒を飲むのが常だった。

 

店長の酒は長く、いつもベロベロに酔うまで飲んだ。

 

店長は、当時かなり生意気だった私のことを「俺の若いころにそっくりだ」と言って私を可愛がってくれたので私も店長のことは好きだったが、延々と飲みつづける店長には嫌気がさしたものだ。

 

ベロベロに酔いながら店長は私にいつも歌を歌わせるのだった。

 

伴奏は、後に私の姉の亭主になった私の先輩だった(後に離婚)。

 

先輩がギターを奏で、それに合わせて私は毎晩、『かぐや姫』の「妹よ」とか「22歳の別れ」などを歌ったものだ。

 

酒盛りはそうして毎日のように続き、帰るのはいつも朝になった。

 

店は予備校に近かったので、店から帰るときには予備校に通ってくる同級生たちと出くわすことがたびたびあった。

 

私は眠くて眠くて予備校に行く気力が湧かなかった。

 

浪人中、私が予備校に行ったのはたった1回きりだった。

 

その1回きりの予備校登校のとき、試験を受けさせられた。

 

初めての文系試験だった。

 

「希望大学」を書く欄があったので私は「慶応」と書いた。

 

そしたらいい点数が取れ、「慶応」に合格できるかどうかについては「A+」と出た。

 

なんだ、こんなんなら初めから文系で入試を受ければよかったと思った。

 

それで試験勉強する気がかなり失せた。

 

アパートでも勉強はほとんどしなかった。

 

たまに英語の「出る単」を開くくらいだった。

 

そして1年が経ち、私は東京の有名私立大学の文学部を受けた。

 

すると、あっさり合格してしまった。

 

ろくに勉強もしなかった劣等生でも有名大学に合格できたのは、私の出た仙台二高のレベルの高さがどれほどのものだったかわかるというものだ。

 

しかし、また父と母が大喧嘩をして私が母側についたことから父は私に対しても怒りをぶつけ、「お前なんか大学に行かせねえ!」と言い放った。

 

父は貧しい旅館の長男に生まれ、親は父を高校に入れる気がなかった。

 

父は成績優秀で大学まで行きたいと思っていた。

 

それで、昼間は働いて学費を自分で捻出することにして夜学の高校にトップの成績で入った。

 

しかし金が貯まらず、大学進学をあきらめた。

 

私が生まれると「この子は絶対に大学に入れる」と決意したそうだ。

 

自分のできなかったことを息子には叶えさせたかったのだ。

 

そのことをよく知っていた私は、「お前なんか大学に行かせねえ!」という父の怒鳴りに対して「いいよ! 大学になんて行ってやるもんか!」と言い返した。

 

そして入学手続きをせずにバイトを続けた。

 

大学は入学する意思はないと判断し、私の合格は無効になった。

 

そして私は東京に出て夜学の専門学校に入り、昼は会社で働いた。

 

父と同じような道を歩くことになったわけだ。

 

運命というか宿命だったと思っている。

 

 

【ダイエット記録】0.1キロ増えた。あと0.5キロだ。