中島敦の『山月記』は、中国の古典を題材にした変身譚である。

『隴西の李徴は博学才穎~』と始まる文章は、漢文調でなかなか物語への入りづらさを感じるが、読み進むうちに引き込まれていく。現代では、人が何か別の動物になってしまったという変身譚など、漫画やアニメなどでいくらでも見られるものだが、映像などない時代には突飛で画期的な物語だったにちがいない。

 

 今はどうか分からないが、自分が中学の頃は、この話を扱う教科書が多かった。

登場人物達の気持ちが直接的に表現されているという点で、国語の題材として使うには都合が良かったのかもしれない。「この時の友人に対する李徴(りちょう)の気持ちはどのようであったのか、次の五つのなかから選びなさい」、てな感じで。

 

 変身譚としては、カフカの『変身』も好きな小説だ。『変身』の場合、ある朝、主人公「ザムザ」がムカデのようなでっかい虫になってしまっていて、ベットから起き上がれないという所から始まっている。『山月記』では、主人公「李徴」が出張先での夜中のこと、外で誰かが自分の名前を呼んでいて、その声を追い無我夢中で走っていると、いつの間にか虎になってしまっている。どちらも唐突な感じで主人公が変身していて、有無を言わさない感じはとても似ている。

 

 人食い虎になってしまった李徴が、かつての友人に対して、自分の思いを語るシーンがこの作品の大部分を占めている。

 

 若い頃に詩人になろうとしてすべてをかけていたが、思いかなわず地方官吏となって働いていた李徴。しかし、詩人への思いを断ち切れず、ある朝、とうとう発狂し、人食い虎と成り果ててしまう。その一年後の事。

道ばたで食い殺そうとした人間が、かつての友人「袁傪(えんさん)」だった。あわてて草むらに隠れて『あぶないところだった』とつぶやく李徴。その声に聞き覚えがあった袁傪の方は、割と不思議がらずに草むらに問いかける『その声は、我が友、李徴子ではないか?』と。こうして、二人は懐かしげに昔話をして会話を弾ませる。

 

 そして、李徴は自分の思いを語り始める。

 

『しかし、何故こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押しつけられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きていくのが、我々生き物のさだめだ。』

そして、かつて詩人を志していた人間の証として、自分がこれまでに作った詩を世間に伝えてほしいと頼む李徴。

『自分は元来詩人として名を成す積もりでいた。しかも、業未だ成らざるに、この運命に立ち至った。曾て作る所の詩数百篇、固より、まだ世に行われておらぬ。~そのうち、今も尚記誦せるものが数十ある。これを我が為に伝録して戴きたいのだ。~作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着した所のものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死にきれないのだ。』

 表現者としての執念のようなもの。自分もそうだったが、自分の思いや表現をなんとかして世にさらしたいという虚栄心のようなものが、表現者にはあるのだ。

『恥ずかしいことだが、今でも、こんなあさましい身と成り果てた今でも、己は、己の詩集が長安風流人士の机の上に置かれている様を、夢に見ることがあるのだ。岩窟の中に横たわって見る夢にだよ。嗤ってくれ。詩人になり損なって虎になった哀れな男を。』

 

 月が、この哀れな詩人崩れの虎と、その不運を同情するかつての友人を、優しく照らしている。

『時に、残月、光冷やかに、白露は地に滋く、樹幹を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。』

 

 自嘲癖の強い李徴の弁解が続く。

『何故こんな運命になったか判らぬと先刻は言ったが、しかし、考えようによれば思い当たることが全然ないでもない。人間であったとき、己は努めて人との交わりを避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だと言った。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。~~己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。これが己を損ない、妻子を苦しめ、友人を傷つけ、果ては、己の外形をかくの如く、内心にふさわしいものに変えてしまったのだ。』

 

 分かれの前に、李徴は、自分の妻子の行く末のことを袁傪にお願いし、袁傪はそれを了承する。

『本当は、先ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。

飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とすのだ。』

 

 袁傪はその場を立ち去り、丘の上まで行って振り返ると、草むらから一匹の虎が躍り出て咆哮する。

 その声の先には、『白く光を失った月』がある。

 それは、かつては人間だった虎を、かすかに照らす明け方頃の名残月。

 または、かつては詩人を志していた男の虚脱感、あるいは虚無の表象、ではないだろうか・・・。

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参照 

岩波文庫 『山月記・李陵 他九篇』 中島敦作 岩波書店

新潮文庫 『李陵・山月記』 中島敦著   新潮社

新潮文庫 『変身」』フランツ・カフカ作  高橋義孝訳  新潮社