『道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。』
伊豆は雨の多い所である。天城山の年降水量は4000ミリを超えるのが普通である。
川端康成の『伊豆の踊子』では、主人公の青年が、旅芸人の一座の踊子を追って天城峠を越える所から始まっている。踊子を追う急いた気持ちが伝わってくる描写だ。

旅芸人は蔑まれている。峠の茶屋のばあさんが青年の問いに答える。
『「あの芸人は今夜どこで泊まるんでしょう」
「あんな者、どこで泊まるやら分かるものでございますか、旦那様。お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか」』

青年は、踊子を追って南伊豆へと向かう。
『暗いトンネルに入ると、冷たい雫がぽたぽた落ちていた。南伊豆への出口が前方に小さく明るんでいた。』

一座に追いついた青年は、彼らと同行することになる。彼らは下田から故郷の大島に帰るのだという。
『湯ケ野までは河津川の渓谷に沿うて三里余りの下りだった。峠を越えてからは、山や空の色までが南国らしく感じられた。』

湯ケ野の宿で、青年は踊子たちの到来を待つ。
『夕暮れからひどい雨になった。山々の姿が遠近を失って白く染まり、前の小川が見る見る黄色く濁って音を高めた。こんな雨では踊子達が流して来ることもあるまいと思いながら、私はじっと座っていられないので二度も三度も湯に入ってみたりしていた。~~ととんとんとん、激しい雨の音の遠くに太鼓の響きが微かに生れた。私は搔き破るように雨戸を明けて体を乗り出した。~~『ああ、踊子はまだ宴席に座っていたのだ。座って太鼓を打っているのだ』太鼓が止むとたまらなかった。雨の音の底に私は沈み込んでしまった』
その夜、踊子たちが流して来ることはなかった。
『雨戸を閉じて床にはいっても胸が苦しかった。また、湯にはいった。湯を荒々しく掻き廻した。雨が上がって、月が出た。雨に洗われた秋の夜が冴え冴えと明るんだ。』

次の朝は、晴れわたっていた。一座の男が訪ねてきて一緒に湯に入った。
『美しく晴れ渡った南伊豆の小春日和で、水かさの増した小川が湯殿の下に温かく日を受けていた。』
一座の女たちが川向こうの共同湯に入っている。
『仄暗い湯殿の奥から、突然裸の女が走り出して来たかと思うと、脱衣場の突端に川岸へ飛び下りそうな格好で立ち、両手をいっぱいに伸ばして何か叫んでいる。手拭いもない真裸だ。それが踊子だった。若桐のよう足のよく伸びた白い裸身を眺めて、私は心に清水を感じ、ほうっと深い息を吐いてから、ことこと笑った。子供なんだ。私達を見つけた喜びで真裸のまま日の光の中に飛び出し、爪先で背一杯に伸び上がる程に子供なんだ。私は朗らかな喜びでことことと笑い続けた。頭が拭われたように澄んで来た。~~私はとんでもない思い違いをしていたのだ』

踊子は14歳で、一座を仕切る男の妹であった。
青年は、宿で踊子と五目並べをして遊んだり、読み物を読んであげたりした。しかし、旅芸人はここでも蔑まれていて、宿の女主人は『あんな者に御飯を出すのは勿体ない』と言って、青年に忠告をしていた。

『好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼等が旅芸人という種類の人間であることを忘れてしまったような、私の尋常な好意は彼等の胸にも沁み込んで行くらしかった。私はいつの間にか大島の彼等の家へ行くことに決まってしまっていた。~~
下田の港は、伊豆相模の温泉場なぞを流して歩く旅芸人が、旅の空での故郷として懐かしがるような空気の漂った町なのである』

湯ケ野を出て、下田に向かう。海の先に大島が見える。
『湯ケ野を出外れると、また、山にはいった。海の上の朝日が山の腹を温めていた。私達は朝日の方を眺めた。河津川の行手に河津の浜が明るく開けていた。
「あれが大島なんですね」
「あんなに大きく見えるんですもの、いらっしゃいましね」と踊子が言った。
秋空が晴れ過ぎたためか、日に近い海は春のように霞んでいた』

しかし、下田に向かう途中、所々の村の入口に立札があった。
『――物乞い旅芸人村に入るべからず』

旅費のなくなった青年は、東京に帰ることにする。一座の女達は彼を引き留めたが、学校の都合があるといって諦めさせる。
下田で踊子と活動を見ると約束をしていたが、一座の女主人がそれを許さなかった。
次の朝、下田の秋の朝風は冷たかった。
『乗船場に近づくと、海際にうずくまっている踊子の姿が私の胸に飛び込んだ。傍に行くまで彼女はじっとしていた。黙って頭を下げた。昨夜のままの化粧が私を一層感情的にした。眦の紅が怒っているかのような顔に幼い凛々しさを与えていた。』

汽船が桟橋を離れ、ずっと遠ざかると踊子が白いものを降り始める。
『汽船が下田の海を出て伊豆半島の南端がうしろに消えて行くまで、私は欄干に凭れて沖の大島を一心に眺めていた。踊子に別れたのは遠い昔であるような気持だった。』

青年は船室に入り、カバンを枕にして横たわり、横に寝ている少年の学生マントの中に潜り込んで、ぽろぽろと涙を流すのだった。
『船室のランプが消えてしまった。船に積んだ生魚と潮の匂いが強くなった。真暗ななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出委せにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。』

天城の雨は、青年の欲を洗い流した。そして、下田の太陽が、旅芸人の少女への叶わぬ恋情をあぶりだし、涙となって流れ出る。

参照 
『伊豆の踊子』 川端康成著 新潮文庫