戦争末期、自分の祖父は、ニューギニアの奥地で、現地住民と食料を作ってなんとか生きていた。祖父の戦争体験記のタイトルは「食と戦ったニューギニア戦争 戦病死は戦死に数倍」となっていて、補給の途絶えた現地戦闘員たちの苦闘がわかる。

 

 大岡昇平は『俘虜記』という戦争体験記を残している。レイテ島での体験を記したものだが、『野火』は、その体験をもとに珠玉の小説として昇華させたものだ。

 

 主人公の「田村」は肺病やみの従軍兵士で、出だしから分隊長に頬を打たれている。本土からの補給は途絶え、最前線の兵士たちは、ただ生きていくための“食料戦”をしていた。使えない兵士はいるだけで食料の無駄なのだった。中隊から追い出された田村は、治っていないのに“治癒”を宣告された仮設病院へと再び向かう事になる。

 

 死を予感した田村は、比島の上に一定の間隔で並ぶ雲の風景に感化される。

 『午後の日は眩しかった。嵐を孕むと見えるほど晴れて輝く空は、絶えずその一角を飛ぶ、敵機の爆音に充たされていた。~~

紺一色の海が拡がり、水平線がその水のヴォリュームを押し上げるように、正しい円を画いて取り巻いている。海面からあまり離れていない一定の高さに、底部が確然たる一線をなしたお供餅のような雲が、恐らくは相互に一定に距離を保って浮んでいる。~~

偶然安定した気圧の下に、太陽が平均した熱を海面に注ぎ、絶えず一定量の水蒸気を蒸発させる以上、一定の位置に、同形の雲を生じるのに何の不思議はなかった。~~

我々の所謂生命感とは、今行うところを無限に繰り返し得る予感にあるのではなかろうか。』

 

 仮設病院の前には中年兵の安田となぜか彼と行動を共にする永松がいた。この二人はこの物語の最後に不幸な結末を迎える。病院の前には、安田や永松の他にも何人かの行き場所のなくなった兵士が座り込んでいた。田村もその群に加わる。

 『日が暮れてきた。空は夕焼けして赤い色が天頂を越え、東の方中央山脈の群峰を雑色に染めていた。地上は草のあわいまでも紫の陰に満ち、陽の熱の名残と、土と、水蒸気とから生まれる、甘酸っぱい匂いがあたりに漂っていた。遙か川向こうの丘の上には、芋虫が立ち上がったような巻雲が夥しく並んで、これも深紅に染まっていた。』

 

 その仮設病院も米軍の砲撃に襲われ、三々五々散らばり逃げるのだった。

 そして、田村のあてのない一人行軍が始まる。

 『目指す朝焼けの空には、あれほど様々な角度から、レイテの敗兵の末期の眼に眺められた、中央山脈の死火山の群が、駱駝の瘤のような輪郭描いていた。

名状し難いものが私を駆っていた。行く手に死と惨禍のほか何もないのは、既に明らかであったが、熱帯の野の人知れぬ一隅で死に絶えるまでも、最後の息を引き取るその瞬間まで、私自身の孤独と絶望を見極めようという、暗い好奇心かも知れなかった。~~

中隊を出る時三日月であった月は、次第に大きさと光を増して行った。片側の嶺線からのぞき込むように現われると、谷を蔽う狭い空をさっさと越え、反対側の嶺線に隠れた。そして光だけ、長く対岸に残っていた。その整然たる宇宙的運行は、私を嘲るように思われた。』

 

 一人行軍の途中には、現地人が開拓して放置された“楽園”のような畑や、敗残兵の屍体が無残に晒されている十字架のある村に行ったりする。その十字架のある村に、現地の男と女が連れだって現われる。田村はマッチをせがんだが、女が悲鳴を上げたため銃で撃ち殺してしまう。男は逃げ去り、田村は、生きていく上で必要な「塩」を確保するのだった。

 田村が“楽園”に戻ると、そこには同胞が3人いた。敗残兵たちに塩を分けた田村は、彼らと共に新たな退却集合地であるというパロンポンに向かうことになる。

 パロンポンへ向かう途中、林間から現われる同胞が続々と連なり、一個中隊ほどの行軍となる。その中には、安田と永松もいた。永松は歩けなくなった安田に肩を貸し、安田の持っている煙草を兵士たちに売りつけて、生きながらえていた。田村は、そんな二人を見すてて先を急いだ。

 『それから雨になった。生物の体温を持った、厚ぼったい風が一日吹き続けると、雨が木々の梢を鳴らし、道行く兵士の頭に落ちて来た。レイテ島は雨期に入ったのである。~~雨はシャワーのように機械的に連続して降り、ぴたりと止み、また不意に、栓をひねったように落ちてきた。そうして幾日も幾日も降った。~~

丘と原は雨に煙っていた。雲が下がって丘の頂の木を包み、突然吹く風に、低く遠く吹き散らかされた。その度に野を蔽う雨の条に、縞が移動した。』

 

 パロンポンへ行くには、米軍に支配されている国道を横切らなければならなかった。その手前には湿原が広がっていた。

 『雨は依然として湿原を曇らせつつ、次第に暗くなって行った、まず遠い「歓喜峰」が消え、アカシアの木が消え、次いで前面の林が消え、やがて何も見るもののない闇となった。』

闇の中で一斉に泥地に進む物音がする。田村もその湿地帯に足を踏み入れるが、進むに従って深さを増す泥地に、田村は死を感じる。

『死の観念は、私に家に帰ったような気楽さを与えた。どこへ行っても、何をしてみても、行く手にきっとこれがあるところをみると、結局これが私の一番頼りになるものかも知れない。』

 国道を渡ったその先には米軍が待ち構えていて、湿原に群がる日本兵たちは一斉射撃を受けてしまう。田村は溝に横ざまに倒れ込んで銃声の止むのを待った。

『物音が、道の一方から進んで来た。雨であった。~~私はのろのろと土手をよじ登り、土に耳をつけて、近づく足音のないのを確かめると、蟇のように素早く道を横切り、頭から先に転がり落ちた。』

湿地帯をわたり元の林間に戻った田村は、パロンポンへの行軍を諦める。

『その道が白く明けて行くのを、私は丘の頂きの叢から眺めた。道の向こう、林の前の原に、日本兵の屍体が点々と横たわっているのが見えた。~~

雨はあがっていた。遠く海の上らしい空に、鼠色の雲が厚く重なった上から、髪束のように高い積雲が立ち、紅く染まっていた。』

 

 再び田村の一人行軍が始まる。しかし、今度の行軍は生死を彷徨う行軍であった。そして、ある夜、赤い火を見るのだった。

 『野も丘も雨に煙っていた。風と音が来て、雨が幕を引くように、片側から風景を打ち消した。夜、なおも雨が降り続ける時、私は濃い葉簇の下を選んで横たわった。既に蛍の死んだ暗い野に、遠く赤い火が見えた。何の灯であろう。雨の密度の変移に従って、暗く明るくまたたき、または深い水底に沈んだように、暈だけになった。

私はその火を怖れた。私もまた私の心に、火を持っていたからである。

ある夜、火は野に動いた。萍草やカホン科植物がはびこって、人の通るはずのない湿原を貫いて、提灯ほどの高さで、揺れながら近づいて来た。

私の方へ、どんどん迫って来るように思われた。私は身を固くした。すると火は突然横に逸れ、黒い丘の線をなぞって、少しあがってから消えた。』

 

 確保していた塩が切れたあと、田村は人肉食との闘いが始まる。

 『雨があがって、空の赤が丘の輪郭を描き出していた或る夕方、私はその赤をもっと良く見るため(だったと思う)丘を登って行った。そして孤立した頂上の木に、背を凭せ動かぬ一個の人体を見た。

彼は眼を閉じていた。その緑の顔に、西の方の丘に隠れようとしている太陽の光線が、あかあかとあたって、頬や顎の窪みに、陰をつくっていた。

彼は生きていた。眼が開いた、真っ直ぐに太陽を見ているらしかった。~~

「燃える、燃える~~早い、実に早く沈むなあ。地球が廻ってるんだよ。だから太陽が沈むんだよ」

彼は私を見た。~~

「兄貴、お前何処から来たんだい」と彼はいった。

私は黙って彼と並んで、腰を下ろした。太陽は向こうの丘に隠れ頂上に並んだ樹の間から、光線が縞をなして迸った。空に残った雲だけ、まだ金色に光っていた。我々は暫く光る雲に照らされていた。~~

その男は死にかけていた。蠅や山蛭にたかられながら田村に向かって言う。

「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」』

 

 田村は、その男の屍体を前に、激しく逡巡する。しかし、右手は剣を抜いて構えたが、彼の左手がそれを止めるのだった。

 『私は降りていった。雨があがり、緑が陽光に甦った。林を潜り、野を横切って、新しい土地の上を歩いて行った。~~

陽光の中を行く私の体からは絶えず水蒸気が騰り続けた。手から、髪から、軍衣から、火焔のように立って、背後に棚引いた。そして次第に空にまぎれ入り、やがてはあの高い所にある雲まで、昇って行くように思われた。

その空には、様々の色と形の雲が重なっていた。それぞれの高度に吹く風に乗り、湧き返り、捲き返って、丘々に限られた眩しい青の上を行きかっていた。』

 

 ついに行き倒れた田村を救ったのは、安田と行動を共にしていた永松であった。永松は安田と共に“猿の肉”を食べて生きながらえていた。田村もそれを口にする。

 安田と田村は敗残兵を撃ち殺しては干し肉にして食べていたのだ。田村も干し肉にさせられそうになったが、永松が安田を殺し、その永松を田村は殺して、生き延びるのだった。

 『次の私の記憶はその林の遠見の映像である。~~その林を閉ざして、硝子絵に水が伝うように、静かに雨が降り出した。

私は私の手にある銃を眺めた。やはり学校から引き上げた三八銃で、菊花の紋がばってんで刻んで、消してあった。私は手拭を出し、雨滴がぽつぽつについた遊底蓋を拭った。

ここで私の記憶は途切れる・・・』

 

 復員して狂人扱いとなった田村が、六年後、精神病院の中で思う。

 『この田舎にも朝夕配られてくる新聞紙の報道は、私の最も欲しないこと、つまり戦争をさせようとしているらしい。現代戦争を操る少数の紳士諸君は、それが利益なのだから別として、再び彼らに騙されたいらしい人達を私は理解出来ない。恐らく彼らは私が比島の山中で遇ったような目に遇うほかはあるまい。その時彼らは思い知るであろう。戦争を知らない人間は、半分は子供である。』

 

 病院のある武蔵野の周辺に野火が満ちるのを感じた田村の思考は、野火を追い続けるうちに、ある夜、思い至るのだった。

 自分は、比島の山中で既に死んでいたのではないかと。あるいは、自分は堕天使なのではないかと。そうして、野火を追い続けている自分は、実は人の肉を食いたかったのではないだろうか?と。

 『この時、私は後頭部に打撃を感じた。~~この精神病院に入った日以来、私の望んでいたのは死であった。到頭それが来た。~~

草の中を人が近づいた。足で草を掃き、滑るように進んできた。今や、私と同じ世界の住人となった、私が殺した人間、あの比島の女、安田と、永松であった。

死者達は笑っていた。~~彼らが笑っているのは、私が彼等をたべなかったからである。

~~私は、人間共を懲すつもりで、実は彼らを食べたかったのかも知れなかった。野火を見れば、必ずそこに人間を探しに行った私の秘密の願望は、そこにあったかも知れなかった。』

 

 そして“生きていた時に”自らは進んで人の肉を食わずに済んだ事を、田村は神に感謝するのだった。

 『もし、私が私の傲慢によって、罪に墜ちようとした丁度その時、あの不明の襲撃者によって、私の後頭部が打たれたのであるならば---

もし、神が私を愛したため、予めその打撃を用意し給うたならば---

もし、打ったのが、あの夕日の見える丘で、飢えた私に自分の肉を薦めた巨人であるならば---

もし、彼がキリストの変身であるならば---

もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば---

神に栄えあれ。』

 参照

 『野火』 大岡昇平著 新潮文庫