地蔵ブログ。
お地蔵さんが好きな人も、嫌いな人も、興味ない人も、とりあえず寄ってみればいいと思う。
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地蔵の空席。

道ばたに、地蔵の台座だけがポツンと置いてあるのを見かけたことがあるだろうか。


神戸では、震災の影響なのか、そういう寂しそうな台座を時折見かける。

卍のマークが取り外されたものの、卍をはがした跡が生々しく残っていたりする。


地蔵の台座を、マンションや建物に壁や敷地にビルトインさせて作った場合、余計に寂しいものがある。

わずか1m四方ぐらいの間隙を埋めるような、地蔵以外のものというのは、なかなか見つからない。


どうしたものかと思いながらも、いつも通り過ぎるだけ。

地蔵の気配だけが残っている。

これも地蔵の仲間?

 村のはずれのお地蔵さんは~♪


という歌があるようです。せっかくなので、歌詞を全部書いてみましょう。


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「見てござる」作詞:山上武夫 作曲:海沼実


村のはずれの おじぞうさんは
いつも にこにこ 見てござる
なかよしこよしの じゃんけんぽん
 ホイ
石けり なわとび かくれんぼ
げんきに 遊べと 見てござる
ソレ 見てござる
たんぼだなかの かかしどんは
いつも いばって 見てござる
ちゅんちゅん ばたばた すずめども
 ホイ
おこめをあらしに きはせぬか
おかたを いからし 見てござる
ソレ 見てござる
山のからすの かんざぶらうは
いつも かあかあ 見てござる
おいしい おだんご どこじゃいな
 ホイ
お山の 上から キョロ キョロと
あのさと このさと 見てござる
ソレ 見てござる
――――――――――――――――――


 コピペがバレバレな感じですけど、歌詞全体の雰囲気が分かると、この歌の舞台におけるお地蔵さんが置かれた場所について、豊かなイメージを持てそうですね。


 作詞家の山上武夫は長野市松代町出身。長野市松代町には、この歌の歌碑があるということですが、長野県にはお地蔵さんだけでなく、道祖神と呼ばれる石の神様がたくさんあるそうです。男女和合の象徴などと言われることもあるそうですが、道路の悪霊を防いで守護してくれる神様として知られています。塞の神(さえのかみ)と習合された、と広辞苑にはあります。


 せっかくなので、塞の神(さえのかみ:「障の神」とも書く)についても広辞苑で調べてみました。日本の神話に登場してきます。伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が、妻である伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉の国に訪ねたとき、追いかけてきた醜女(よもつしこめ)を遮って止めるために投げた杖から出てきた神さまだそうです。そこから、邪霊の進入を防ぐ神様として位置づけられ、航路や旅の安全を守る存在として、村境等に置かれるようになったとのことです。近世では、その姿形から、良縁、出産、夫婦円満の神様ともなったということですが、この塞の神→道祖神という神様が、さらにお地蔵さんと同じ扱いをされていると指摘する人がいます。


 道路は、魑魅魍魎が跋扈する場所ですね。沖縄でよく見かけるシーサーや石敢當(いしがんどう)などは、道路を走る悪霊を防ぐ守り神です。門から悪霊が入ってこないようにするのがシーサーですし、猪突猛進な悪鬼が突き当たりの壁を乗り越えて家に入ってこないようにするのが石敢當です。ちなみに石敢當のルーツは中国の福建省あたりにあるらしく、日本国内では九州や中国地方、海外では東南アジアにも分布しているとのことです。


 似たものを思いついたので、調子に乗ってもう少し書きます。京都などで屋根の上に乗っている鍾馗様と呼ばれる小さな神様は、唐の玄宗皇帝の夢の中に出てきた魔を祓ったという故事に由来しているそうです。流行病に対する守り神として親しまれているようです。


 そんなこんなで、人びとを守ってくれる神様仏様として、お地蔵さんも道ばたや村はずれに設置されてきたわけです。ちなみに、京都のお地蔵さんなどは、路地単位の町会の中央にあることが多いということで、共同体を守る存在として大事にされているようです。都会と農村部では、お地蔵さんの立ち位置も少し違うようです。


地蔵の祠。

 野ざらしの地蔵もあるけれど、多くの場合、小さな祠に納められている。この祠、実に興味深い。



 祠は誰が作っているのだろうか。地元の人達が手作りで作る場合もあるだろうし、工務店や工芸店と呼ばれるお店の職人さんが作ってくれる場合もある。住宅やマンションの壁に埋め込まれた「ビルトインタイプ」の祠&地蔵もある。コンクリート打ちっ放しの「安藤忠雄風」の祠を見かけることもある。お地蔵さんが雨露に濡れなければ、何でもいいということなのかもしれない。



 お地蔵さんに対して「雨に濡れたらかわいそう」という感覚は、どこから涌いてくるのだろうか。お地蔵さんは子どもの身代わり、子どもの化身という見方がある。お地蔵さんのお世話をしている人にとって、お地蔵さんっていうのは、我が子のようにカワイらしいものに思えてくるのかもしれない。



 そういう親心のような気持ちから、不思議な祠が作られることもある。総赤ペンキ塗りの祠や、総ステンレス祠などもある。手作り感満載の祠も、お世話をしている人の人柄が表れていて、スバラシイと思う。

地蔵の由来。

 地蔵は、どこからやってきたのでしょうか。あまりに身近な存在すぎて、その由来に思いを馳せるのも大変かもしれません。


 いくつかの説があるので、これが正しいということは言えませんが、「地蔵」という名前が書かれた仏教の教典は、既に、聖徳太子の時代~奈良時代ぐらいには日本に入ってきたいたようです。ただし、その頃には子どもを守るとか、賽の河原で子どもを救うとか、いぼを取ってくれるとか、安産祈願とか、そういう願い事の対象ではなかったようです。



 「願い事」と言っても、いろいろあります。平安時代の貴族たちの間では「無事に極楽浄土に行けますように」という願い事が流行っていたそうですが、その頃には、地蔵も「極楽浄土」を祈願する対象となりはじめていたようです。しかし、貴族ではない人びとが、「あの世」に行けるように願うよりも、今、この世に生きているいろんな苦労や悲しみから解き放たれたいと、願うようになりました。それは、鎌倉時代に入ってからだそうです。「この世」の願いを聞き届けて欲しい。これを「現世利益」と言います。



 地蔵が現世利益と結びつけられて信仰を得るようになるのは、鎌倉時代以降のことだと言われています。古い説話などにも地蔵が登場してきますが、京都が舞台となることが多いようです。地蔵信仰の中心地は京都だということで間違いないと思いますが、地方に地蔵信仰が浸透していく過程、時期や経路などを特定しながら把握することはなかなか難しいことだと思います。




 信仰が伝播していくためには、街道沿いに広がるだけでなく、西国三十三ヶ所巡りや、四国八十八ヶ所巡りなど、巡礼のルートなども関係あるかもしれません。また、各地で地蔵や仏像を彫って歩く雲水や巡礼の僧などの存在も重要だったと思いますので、それらが重なり合いながら、全国各地に地蔵信仰が広まっていったことでしょう。



 そう考えると、謎だらけの地蔵信仰です。しかも、文明開化以降の地蔵信仰の広がりも、実はかなり大きなものです。たとえば神戸などでは、都市の近代化に伴って、周辺の農村部から出てきた工場労働者が暮らす長屋住宅が作られました。この長屋住宅の路地に、多くの地蔵が設置されました。一説では、長屋で生まれた子どもの不幸を悲しみ、子どもの無事な成長を願い、新たにたくさんの地蔵が設置されたということです。


 また高度成長期には、堕胎した若い女性を対象とした「水子供養」のための水子地蔵信仰が広がりを見せた、という主張もあります。神戸の震災後には、震災の犠牲者を祀る地蔵も多く作られました。いずれにせよ、世情を反映して、地蔵祭祀の内容は常に変化し続けてきた、と言えるのかもしれません。

地蔵の仲間

 地蔵と言っても、たくさんの種類があります。でも、基本的には「生活の中の、身近な願いや祈り」の対象として位置づけられるのではないかと思います。たとえば生病老死に関係するような願い事など。でも、地蔵以外にもそういった神様、仏様がいるんじゃないでしょうか。


 たとえば、イタリアに行けば、路傍のお地蔵さんのように、あちこちにマリア像が設置されていたりするそうです。インドでは、歩道寺院と呼ばれる祠が、道路に建てられたりしていて、こちらも、地元の人びとにとってはお地蔵さんに似たような存在なのかもしれません。「あちらの歩道寺院は、ご利益があるから遠くても行ってみよう」とか・・・。日本のお寺や神社でも同じですね。インドネシアのバリ島では、大きな木の根元や道路の交差点などに精霊が宿るとして、あちこちに精霊へのお供え物が置かれています。お供え物は、市場で山のようにして、セットで販売されていました。「異界」というよりも、生活空間の中で、精霊や「目に見えないもの」と共に暮らしているという感覚なのかもしれませんね。


 日本国内でも、仏教や神道の体系に明確に組み込まれていない、精霊信仰や先祖崇拝のような祭祀が行われているものが、まだまだたくさんあるようです。八百万の神が万物に宿るわけですから、たくさんの信仰や祭祀が行われてきました。都市化や近代化が進み、科学技術も進みました。


世知辛い世の中に対して、「神も仏もあったもんじゃない」と思う方も多いかもしれません。でも、日本にもまだまだ神仏や精霊、妖怪などが暮らせそうな場所がたくさんありそうです。そんな「目に見えないもの」とのつながりを求めて、あちこちさまよい歩いてみるのも、悪くないなぁと思います。

地蔵の大きさ。

地蔵の祀られ方についてあれこれ考える前に、ぱっと目に付くところということで、地蔵の大きさについて考えてみたい。ちゃんと調査をしたわけじゃなくて、何となくのあちこち見て回った印象だけで書いてますので悪しからず。


小さいものは手のひらサイズ。おみやげ物屋さんで売っていそうな大きさのものが、祠の片隅で祀られていることもある。陶器製や金属製のものもある。現代風のカワイらしい素焼きのものなんかも、ちゃんと祠に入ってたりすることもある。「家庭用地蔵」なんてジャンルは、確立されてるのだろうか。


もう少し大きくて、神戸市内でもよく見られるのは高さ15センチぐらいの座像。これも、片手でひょいと掴めてしまいそうな小ささ。砂岩質の石を彫りだしている感じが多いという印象。


そして見かける頻度が高いものの一つが、背中に光背(?)を背負ったようなスタイルの立像。高さ50センチ前後ぐらいが多いような気がする。先端が尖った光背を背負うため、地蔵はレリーフ状に表現されることが多い。光背の正面左右には、施主の名前や年代、願掛けの内容などが記されることもある。


もう一つ、頻繁に見かけるのは小さな五輪塔のようなもの。高さは30センチから60センチぐらい。いわゆる地蔵のカタチをしているわけではなく、少し厚みの異なる肉まんを縦に五つほど積み重ねたようなデザイン。これに、赤い涎掛けが掛かっていたりして、立派に地蔵扱いされているのだ。


50センチ以上の大きさのお地蔵さんも、少なくはないと思う。けれど、小さな祠に入るサイズという限界があるので、立派なお地蔵さんは、別格扱い。祠というよりお堂と呼べそうな大きな建物で祀られていたり、立派な台座に乗せられて、広い敷地に祀られていたりすることが多い。


別に、大きなお地蔵さんを対象外にするつもりはないけれど、われわれ庶民が路傍で祀るお地蔵さんに限定して考えていくと、自ずと小さいお地蔵さんばかりに目が行ってしまう。

神戸、京都、大阪の地蔵盆。

神戸の地蔵盆。みんなお菓子をもらってまわる。7箇所の地蔵をめぐると、子どもが健康に育つとか、最初に回る地蔵は北向きの地蔵がいいとか、いろいろな決まりがあったりするようです。


地蔵や地蔵盆は、案外、全国的に広がりがあるんです。でも、この「地蔵を巡ってお菓子をもらう」という風習は、神戸あたりが中心のようです。明確に線が引けるわけじゃありませんし、神戸でも、一つのお地蔵さんだけを、近所の住民や子ども達がお祀りして、数珠を繰ったりするところもあるようなので、一概には言えませんけれど。


京都の地蔵盆は、路地の奧にみんな集まって数珠繰りや供養、出し物などをやったりお菓子を食べたりする光景というのが、風物詩にもなっているようです。でも、やはりアウトサイダーには近づきにくいかもしれません。その点、神戸では、知らない人がたくさんお地蔵さんを巡りますので、みんなニコニコと新参者を受け入れてくれます。


これも土地柄なんですかねぇ。


なお、大阪でも、多くは「非巡回型」というか、お地蔵さんのお祭に参加する人が固定されていて、一箇所に集まってお祀りするというところが多いようです。でも、仮装行列があったりと、京都とも神戸とも違う風習を維持しているところもあるようです。

お地蔵さん研究の出発点。

なんで地蔵の研究なんか、はじめたんやろか。。。

そんな選択をした自分がフシギだけれども、とりあえず書けるだけのことを書いてみようと思う。


きっかけは「神戸の地震で、家よりも先にお地蔵さんを復活させた人がたくさんいた」という新聞記事か何かを見たから。おかしなこともあるものだ。なんでお地蔵さんを真っ先に再建せなあかんの?というのが出発点。


お地蔵さんを避難所に持って行った人、転居の度に、お地蔵さんと一緒に引っ越していった人、などなど。自分はお地蔵さんを持っていないけれど、お地蔵さんのお世話をしている人にとっては、お地蔵さんってのはとっても大事なモノらしい。


なんやろ?お地蔵さんて、いったい何やろ?というのが出発点。

地蔵が好きってわけじゃない。

地蔵のことをブログに書いて見ろと言われたので、書いてみる。

まあ、メモ帳代わりに書き連ねてみればいいだろうと思う。