"DEATH”シリーズ第3弾です。
先週は母の臨死体験だったのですが、今週は自分の”臨死疑似体験”、いわゆる”幽体離脱体験”をつらつらと書かせて頂きます。
いっとう身近な母親の臨死体験を聞いてそれなりに納得はできたのですが、やはり自分で体験してみないことにはそれほどのインパクトはないよなぁと思いつつも、幼きころの大事件もそんなこんなで月日と共に風化。
が、母と同じくらいの年齢のときに、な、な、なんと!
やっとリアル体験をさせてもらえたんですよ~~~!
思えばあれは・・・、大阪から東京へ出て来てすぐのとき。
当時、東京近郊の保谷というところに住んでいたのですが、その家はまわりが緑に囲まれたなんともアンティークでなかなかに風情のある平屋の一軒家。
門扉から玄関まで10メートルほどあり、庭も100坪。
電気の工事にきた人が「まるで避暑地の別荘みたいですね」という褒め言葉なんだかどうなのか、という不思議な雰囲気の家でした。
その家で、ある夏の夜(母の臨死体験も夏でした。やっぱオカルトティックなことは夏がベストマッチなんですかねぇ)のこと。
割合涼しい家だったので熟睡していたのですが、なんだかブワッブワッとした感じで半覚醒状態になり、ハッと気がつくと、えっ?なんか変・・・。
自分の身体が宙に浮いている感じなのです。
えっ、えっ、えっ~~~!下を見ると、れれれっ自分っぽい物体が・・・。
メチャクチャ怖くなって、「怖いよ~~!」と思ったら、自分の身体の中に戻っていました。「な、な、なんなんだ?今のは一体、なんなんだ???」と少し落ち着いてきたのですが、ここで生来の好奇心がムクムクムク~。
「ひょっしたらこれって、お母ちゃんの言うてたあれか?」という思いが飛来し、「もしそうやったら、これぞ千載一隅の大チャンスやん!あ~、勿体ないことしてしもた・・・」とうつらうつらし始めるや否や、またもやブワッブワッが。
2回目のそのときは好奇心の方が数倍強く、冷静沈着にことの成り行きをしっかり見極める覚悟ができていたのです。
で、覚悟を決めるとブワッブワッがやがてはブワワワワ~~ンっ!という感じになり、意識が身体からスッポ〜ンと抜け出たのです。
その感覚は、私はやらないのでそれが正しいかどうか断言はできないのですが、我が伴侶は大阪時代よりスキューバーダイビングを嗜んでいて、潜りに行くのにいつも運転手をさせられていました(伴侶は運転免許がないのです)。
その付き添いの折りに目にしていたのですが、あのゴムでできたウエアの着脱に難儀していました。着るのも大変そうだったけれど脱ぎ終わったときに「あ~、楽になった」と言ってましたから、丁度あれを脱ぐときのような感じかなと思ったことを明確に記憶しています。
で、抜け出た意識体なのですが、上のイラストのような感じなのです。
視野がボンヤリとしていてまるでボール状の蚊帳の中から外を観ているのです。
そのボール状のものがフワフワと漂っているのですが、元々臆病者なのでそのボールは一体どのように?と思って自分の体を観てみると(仰向けに寝ていました)首の辺りからシルバーグレーのホースくらいの太さの紐状のものと繋がっています。
それを確認して風船みたいやなぁと安心したのですが、風船はだんだんと上に上にと上がって行きます。
このまま行ったら天井にぶつかる~、いや、しかし、霊体はすべての物理的障害物を通り抜けられるというようなイメージが湧くや否や、シュワッっと天井を突き抜け、庭に出ていました。
庭には杉や柿、木蓮などが植えられていたのですが、杉の木のあたりで「ふ~ん、これが我が家の俯瞰図か~」とフワフワしていると、左の方から綺麗な光が近づいてきます。近づくというより大きくなってくるという感じです。
まわりが黄色っぽい黄金色で中心は輝くような白です。
「いやあ~!綺麗やな~、あの光に包まれたら気持ちエエやろな~」と思う反面、「いやいや、今はまだアカン。今と違う」という気持ちが強くなり、右側に行こうとすると、いきなり暗転。
なんだか明治初めのころの農家の土壁の辺りを漂っています。
なぜ、明治初めころと思ったのかと言えば、土間があってそこで木綿の灰色の盲縞の着物で日本髪を結ったおばさんがしゃがみ、火吹き竹で竃の火を吹いていたのです。なんとも暗~い感じで「こんなところに長居は無用』と思った途端にまたもや暗転。今度はうっそうとした竹薮の中にある庵のような家屋の中にいたのです。
やはり中空にフワフワと漂っているのですが、目を凝らして見てみるとその部屋には小さな出入り口(茶室の出入り口のような小ささ)があり、そこを何匹もの妙な動物が忙しそうに出入りしているのです。
その動物の状態はと言えば、犬でもなし、猫でもなし、狸でもなし、狐でもなし、なんとも形容のしようがない妖怪チックな動物連なのです。
観ているうちに怖くなってきて「ああ~、こんなところにいたら帰れなくなる。帰りたい!」と思うとお約束の暗転。
一気に我が家の杉の木のあたりに戻っていました。
でも、まだフワフワしたままです。
いやいや、ここではなくて自分の中に戻りたいのに、どうしたら良いのだろうとしばし途方に暮れながら空を見上げると(体がないのにまるで体があるような指令はやはり習慣なのでしょう)今にも雨が降ってきそう。
そのときに「ああ~、どうしょう、霊体は濡れたら溶けてしまうかも?」と違う恐怖心がわき起こり「ああ~。どうぞ戻らせて下さい!」と念じると、ストンと体に入っていました。
すると隣で寝ていた伴侶が、むっくりと起き上がり「なんか雨が降ってきたみたい」とか言いながら、枕元の窓を閉めにいきました。
それで私も窓を見たら、遠くの方でエメラルドグリーンの光が点滅していたのですが、それを見てなんだかとても安心し眠りに着くことができました。
(あの緑の光は何だったんだろう?今も謎です・・・)
翌朝、あまりの不思議な体験に我が伴侶に「昨日、こんな・・・・な経験してんけど
どう思う?」と聞いたら、「さあ、ボクは経験ないからわからんなぁ」。
すぐに本屋に行き、それらしき本を調べようとしましたが、今から30年以上も昔のこと。変な怪談本はありましたが「体外離脱」に関する本など小さな本屋で見つかるはずもなく、ましてや「体外離脱」などという言葉すら知らず、しかし、持って生まれた好奇心がまたもや次のチャレンジに向かわせてくれることになったのです。
これにまつわる面白いことがそれ以後、次々に起こってきます。
でも、またもや長くなるので続きはまた来週!
12~18のお告げ
WALKING
IN BEAUTY
美の中を歩く
<ネイティブアメリカンの文化には、美の中を歩くという考え方があります。
それはナバホ族の伝承で、ホジョナーシャ(hozhonaasha)と呼ばれ、自然と調和した生き方を意味します。周囲の自然界と”正しい関係”にあるとき、私たちは美の中を歩いています>(Native Spiritガイドブックより)
私たち人類も自然の一部です。
私たちは本来美しい生き物です。
私たちのまわりも美に溢れています。
それをメチャクチャにして行ったのは私たち自身です。
「自然を征服する」とか「自然に打ち勝つ」というような考え方のニンゲンがいますが、ネイティブアメリカンの人たちはもとより、世界中には自然を崇める、共存するという考え方の人たちも多く存在しています。
いわゆる文明が発達している国の人たちはあまりにも生活様式がスピーディーかつ功利的になり過ぎ、自分たちの思い通りにならない物事に対して実に非常でエゴイスティックであることが当然とされています。
ネイティブアメリカンは足下の石ひとつを動かすにも、その石と会話をして決めるとか?
確かにその石の下にはミクロな宇宙が広がっていますし、石そのものにも石としての意識があるはずです。
人類の科学がどれだけ進歩しようが、人類には木の葉一枚創り出すことはできません。この地球上に存在するすべての有機物はみな同じ”命”です。
人類は霊長類であり、さらにはその頂点に位置している有機体です。
霊の長(おさ)であることを日々忘れないようにしなくてはいけません。
自然の美しさは人類に内在する美しさの反映でもあります。
今のような世情を創り出したのは私たち自身です。
私たちひとりひとりがもっと謙虚に自然と対話することが,今最も必要とされています。
人類、強いては自分自身の傲慢さを謙虚な視点に立って客観的に見つめて下さい。
用事がなくても散歩の時間を作り、野辺の草花と会話してみて下さい。
公園の木に挨拶してみて下さい。
水や火、土や風とコミュニケーションしてみて下さい。
部屋に観葉植物やお花を飾るのも良いでしょう。
今週はより身近に自然を感じる週になさって下さい。



















