慶応4年1月6日 戦闘の最中に大坂城を脱出した慶喜に対し、新政府は翌日「慶喜追討令」を出し、10日には慶喜の他、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬ら27名を「朝敵」として官職を剥奪、京都の藩邸も没収と賊軍として追い詰めていった。
一方、慶喜は11日に品川に到着。
翌日江戸城に入り今後の対策を練っていく。
周辺警備を固める一方、主戦論の急先鋒であった勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順を15日に罷免。
19日に在江戸の諸藩主を集め恭順の姿勢を鮮明にし協力を要請。
翌日、かつて「攘夷の実行」を嘆願された際にシカトした静寛院宮(和宮)にまで協力を要請した。
1月24日 徳川家の人事改造。
雑務担当の若年寄・会計総裁に大久保忠寛(一翁)、陸軍総裁に勝海舟を抜擢し、仏公使で戦争をしてもらいたい?ロッシュによる度重なる抗戦要請をも断固断り恭順路線を推進していく事となる。
2月9日 鳥羽伏見の戦いの責任者を処分。
14日 江戸城を田安徳川家の当主慶頼(養子にした亀之助の父)に明け渡し、自らは上野寛永寺で隠居謹慎生活を送る。
これに対し新政府側は、切腹をも求める西郷ら薩摩勢の強硬論と木戸ら長州他の寛典論に分かれ、
2月9日には、総裁の有栖川宮タル仁親王を東征大総督に任命、新参謀として西郷らを従え、
15日 江戸へと進軍を開始した。
かつて、孝明天皇の妹として有栖川宮と婚約をしていた静寛院宮は、徳川家の為に快くは思っていなかったであろう慶喜の仲介を引き受け、度々有栖川宮などに書簡を送り慶喜の助命と徳川家の存続を嘆願、新政府側にはあまり効果はなかったようですが、有栖川宮は戦争を避ける為に東征大総督に志願したそうですし、静寛院宮の姑として大奥を仕切っていた天ショウ院(篤姫)が島津家出身であったことから、薩摩の西郷ら強硬派にも影響は与えたようです。
3月5日 駿府に到着した東征軍は翌日軍議を開き、15日を江戸城総攻撃の日と決めますが、「別秘事」として、慶喜の恭順の意思が確認できれば、これを受けると言う「逃げ道」を用意して戦闘を避けるべく画策します。
その後、最終的に勝海舟と西郷隆盛らの会談により無血開城が決する訳ですが、皇室出身の静寛院宮を巡る人間関係が皮肉な運命に満ちていて考えさせられます。
皇室側に戻る事も出来たであろうに、朝敵側を救うべく尽力する姿は、地位にしがみつく政治家に爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものですが…。
一方、慶喜は11日に品川に到着。
翌日江戸城に入り今後の対策を練っていく。
周辺警備を固める一方、主戦論の急先鋒であった勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順を15日に罷免。
19日に在江戸の諸藩主を集め恭順の姿勢を鮮明にし協力を要請。
翌日、かつて「攘夷の実行」を嘆願された際にシカトした静寛院宮(和宮)にまで協力を要請した。
1月24日 徳川家の人事改造。
雑務担当の若年寄・会計総裁に大久保忠寛(一翁)、陸軍総裁に勝海舟を抜擢し、仏公使で戦争をしてもらいたい?ロッシュによる度重なる抗戦要請をも断固断り恭順路線を推進していく事となる。
2月9日 鳥羽伏見の戦いの責任者を処分。
14日 江戸城を田安徳川家の当主慶頼(養子にした亀之助の父)に明け渡し、自らは上野寛永寺で隠居謹慎生活を送る。
これに対し新政府側は、切腹をも求める西郷ら薩摩勢の強硬論と木戸ら長州他の寛典論に分かれ、
2月9日には、総裁の有栖川宮タル仁親王を東征大総督に任命、新参謀として西郷らを従え、
15日 江戸へと進軍を開始した。
かつて、孝明天皇の妹として有栖川宮と婚約をしていた静寛院宮は、徳川家の為に快くは思っていなかったであろう慶喜の仲介を引き受け、度々有栖川宮などに書簡を送り慶喜の助命と徳川家の存続を嘆願、新政府側にはあまり効果はなかったようですが、有栖川宮は戦争を避ける為に東征大総督に志願したそうですし、静寛院宮の姑として大奥を仕切っていた天ショウ院(篤姫)が島津家出身であったことから、薩摩の西郷ら強硬派にも影響は与えたようです。
3月5日 駿府に到着した東征軍は翌日軍議を開き、15日を江戸城総攻撃の日と決めますが、「別秘事」として、慶喜の恭順の意思が確認できれば、これを受けると言う「逃げ道」を用意して戦闘を避けるべく画策します。
その後、最終的に勝海舟と西郷隆盛らの会談により無血開城が決する訳ですが、皇室出身の静寛院宮を巡る人間関係が皮肉な運命に満ちていて考えさせられます。
皇室側に戻る事も出来たであろうに、朝敵側を救うべく尽力する姿は、地位にしがみつく政治家に爪の垢でも煎じて飲んでもらいたいものですが…。