慶応4年3月13、14の2日間に渡って行われた勝、大久保、山岡らとの会談を終えた西郷は京都に帰り、20日朝議に諮る。
勝の出した条件に議論が交わされ、ほぼ条件が通ったが、会津と桑名の両藩に対しては、従わず抵抗すれば討伐すると修正され、再び西郷は江戸へと向かった。
3月28日 江戸での勝らとの最終的な詰めを前に、横浜のパークスの元を訪れた西郷は顛末を報告。了承を得た上で江戸に入っていますから、現在の政府のやり方も、この頃と何ら変わりのない事が分かりますね。結局、親分がイギリスからアメリカに変わっただけで、いつまでもぬるま湯に浸っていたいだけの甘ったれた親離れできない子供なんですね。(T_T)
4月4日 大総督府と徳川家間で最終合意が為され、東海道先鋒総督として最初に進軍し始めた橋本実梁(静寛院宮の叔父)や西郷らが兵を率いて江戸城へ入城。
これを受け、寛永寺で謹慎中の慶喜が11日水戸へ出発。江戸城は名実共に明け渡された。
一方、16代目となる徳川宗家を相続する事になったのは、15代目になり損ねた?田安亀之助。
5月24日 駿府70万石への移封(幕府は約800万石)が決まり、
8月 徳川家達としてわずか百数十名の伴と共に行列で移動したそうです。
準中老に大久保一翁、幹事に勝、山岡と名称だけが変わった役職で補佐として世間知らずの幼児と、水戸から隠居の為に移転して来た慶喜、更に旧幕臣や下級武士とその家族らも大挙移転して来た為に、石高に見合わぬ人口を抱え、旧家臣らは過酷な生活を強いられ、フランスから帰国したばかりの(当然のようにグラバー絡みです)渋沢栄一まで呼び寄せ、財政再建を図ろうとしたものの、新政府の大隈に大蔵省へ誘われ中央政界へと復帰してしまっています。
翌明治2(1869)年6月 静岡藩と名称を変え知事に任命されたのが、6才の家達。
実務など出来るはずもなく、幕府時代と同じように勝や大久保が支えて大変な苦労をしたようですが…。
この地で、知り合った山岡鉄舟と清水の次郎長。
男気を感じ取ったのか意気投合し、次郎長は博打を止め清水の発展に貢献するようになったと言いますから、人は出会いで変わるという事ですね…。
人は困難に直面した時に、他の人や出来事のせいにしたがりますが、『変わるべきは自分』なのかもしれません。
自分の視点を少し変えて見るだけで、今まで見えなかったモノが見えてくるかもしれませんゼ!^_^v
勝の出した条件に議論が交わされ、ほぼ条件が通ったが、会津と桑名の両藩に対しては、従わず抵抗すれば討伐すると修正され、再び西郷は江戸へと向かった。
3月28日 江戸での勝らとの最終的な詰めを前に、横浜のパークスの元を訪れた西郷は顛末を報告。了承を得た上で江戸に入っていますから、現在の政府のやり方も、この頃と何ら変わりのない事が分かりますね。結局、親分がイギリスからアメリカに変わっただけで、いつまでもぬるま湯に浸っていたいだけの甘ったれた親離れできない子供なんですね。(T_T)
4月4日 大総督府と徳川家間で最終合意が為され、東海道先鋒総督として最初に進軍し始めた橋本実梁(静寛院宮の叔父)や西郷らが兵を率いて江戸城へ入城。
これを受け、寛永寺で謹慎中の慶喜が11日水戸へ出発。江戸城は名実共に明け渡された。
一方、16代目となる徳川宗家を相続する事になったのは、15代目になり損ねた?田安亀之助。
5月24日 駿府70万石への移封(幕府は約800万石)が決まり、
8月 徳川家達としてわずか百数十名の伴と共に行列で移動したそうです。
準中老に大久保一翁、幹事に勝、山岡と名称だけが変わった役職で補佐として世間知らずの幼児と、水戸から隠居の為に移転して来た慶喜、更に旧幕臣や下級武士とその家族らも大挙移転して来た為に、石高に見合わぬ人口を抱え、旧家臣らは過酷な生活を強いられ、フランスから帰国したばかりの(当然のようにグラバー絡みです)渋沢栄一まで呼び寄せ、財政再建を図ろうとしたものの、新政府の大隈に大蔵省へ誘われ中央政界へと復帰してしまっています。
翌明治2(1869)年6月 静岡藩と名称を変え知事に任命されたのが、6才の家達。
実務など出来るはずもなく、幕府時代と同じように勝や大久保が支えて大変な苦労をしたようですが…。
この地で、知り合った山岡鉄舟と清水の次郎長。
男気を感じ取ったのか意気投合し、次郎長は博打を止め清水の発展に貢献するようになったと言いますから、人は出会いで変わるという事ですね…。
人は困難に直面した時に、他の人や出来事のせいにしたがりますが、『変わるべきは自分』なのかもしれません。
自分の視点を少し変えて見るだけで、今まで見えなかったモノが見えてくるかもしれませんゼ!^_^v