徳川慶喜の静岡への下向を見届けた海軍副総裁榎本武揚は、
慶応4年8月19日 品川沖に停泊していた旧幕府所有の軍艦開陽丸ほか8隻に(カン臨丸は見つかって集中攻撃を食らい奪還されてしまいますが)、抗戦派の旧幕臣と共に乗り込み太平洋を北上。
若き日に赴任経験のある函館へと向かった。
「北方警護」を名目とした、この脱走劇は、途中仙台で、会津戦争に敗れた伝習隊、新撰組残党、彰義隊などを吸収し兵力を増強させ道南の鷲ノ木に上陸。
各地を平定し、五稜郭を攻略、府知事は敗走し全島を占領した。

1868年11月4日(明治元年9月20日)英公使パークスの要望により書記官アダムズが英仏軍艦と共に函館に入港。
翌日、両艦の艦長と打ち合わせをし、函館奉行、永井尚志を艦に招く。
豊富な外交経験と海軍伝習所(勝らを指導)を始めとする指導者として培った態度に好印象を持った英仏領事とアダムズは、
後の榎本との会談でも、厳しい注文をつけますが、反乱軍にも関わらず事実上の政権として認めると言う覚書(榎本が文書化を要求)まで交わしてしまいます。


こうして、明治元年12月15日
旧藩主や大名クラスを抱えた寄せ集めの「政権」は、アメリカなどの政治制度を模範に体裁を調えるべく日本初の「公選入札(選挙)」を行います。
投票に参加したのは、旧指揮官クラス以上の役職だった者856名。
結果、
1位 榎本武揚(元 海軍副総裁)156票
2位 松平太郎(元 陸軍奉行並)120
3位 永井尚志 116
以下、大鳥圭介(元 伝習隊隊長)86、土方歳三 73、松平定敬(元 桑名藩主)55、板倉勝静(元 松山藩主)26
などとなり、榎本が最大得票を獲得するものの、各グループ毎に投票が分かれ、
主要ポストは、
総裁 榎本
副総裁 松平太郎
陸軍奉行 大鳥
海軍奉行 荒井郁之助(元 軍艦頭)となり、土方は陸軍奉行並、永井は函館奉行。
松平定敬や板倉の名はなかったものの、一応の政権としての体裁は整った。


その後、財政難により用意していた軍資金が乏しくなると、旧幕府軍で資金調達をしていた松平太郎と会計奉行の榎本道章は偽造貨幣(←アベノミクスではありません)の発行や、通行税、売春婦や縁日の出店からまでショバ(場所)代を徴収するなどアコギな取り立てで住民の反感を買い、行き詰まっていくわけですが…。


結果はどうあれ、この選挙に関しては、不正だけはなかったようですね。
慶応4年7月17日(1868年9月3日)
「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔」により、東京で政務を執る事を宣言した天皇。
8月17日 政情不安定で延び延びになっていた即位の礼を10日後の8月27日に執り行う事が発表され、
当日、父孝明天皇の崩御から20ヶ月を要して、京都御所にて内外に即位を示す儀式を執り行った。
16歳を前にした明治天皇が公式に即位。
9月8日には元号を慶応から明治へと改元。(同時に遡って慶応4年の1月1日から明治元年を始めることとして、ややこしくなっていますが…)
「一世一元の詔」も発表、どこかの首相並みにコロコロ変わっていた元号を、天皇の在位中は同一と定めた。


『聖人南面して天下を聴き、明に向ひて治む』
松平慶永らが勘案した文面をクジにして、天皇自らが引くと言う運に任せた決断を、どう捉えるかは個人の自由でありますが…。
明に倣ってと言いながら、急速に西洋化を進めて行くところがこの国らしいですけども。


明治元年9月20日(1868年11月3日)
16歳の誕生日に京都を出発。
岩倉や議定の中山忠能らを伴い、長州、土佐、備前、大洲(伊予)4藩の警護兵を含め、総勢3300人余りで東幸。
10月13日 江戸城へ到着し、東幸の皇居と定め東京城と改称。
10月17日 「皇国一体、東西同視の下、内外の政を自ら裁決する事」を宣言する旨を天皇の名で発し(「御東幸万機御親裁の詔書」)、京都御所以外の中央行政機関も次々と消え東京へ移転、明治4年には首都機能移転がほぼ完結した。


145年後の東京。
貨物列車かと思えるように運ぶ満員電車で今日も都心へと向かう人々。
選挙用の「地方分権」や「首都機能移転」などの言葉が白々しく空を飛びながらも、参勤交代よろしく、霞ヶ関詣でに勤しむ地方公務員。
結局、お上(の決めた事)に従っている方が楽で良いと思っているのでしょうか?
3・11から僅か2年で何事もなかったかのように元の悪政を繰り返す権力の亡者たちの所業に、何とかひっくり返してやりたいと思うのは私だけではないはずです。

さて、どうしたものやら…。
平成の次の時代には、様子もかなり変わっていることでしょうけど、自分たちの手で売国奴たちに一発お見舞いしてやりたいと願わずにはいられません。

とりあえず、何とかして消費税の増税を凍結させねば…。
大政奉還から王政復古と、政治の中心地が江戸から京都に移って激動の波に揉まれていた頃、天皇の親政を行うにあたり、旧習を一新して新しい地で始めようとの動きがあった。

鳥羽伏見の戦いが終わった後、参与の大久保利通が、総裁の有栖川宮親王に提言し、慶応4年1月23日 大政官会議で『浪華遷都』案が諮けられるも公卿衆の猛反発に遭いあえなく廃案となる。
そこで策を練った大久保は、副総裁の岩倉具視を介して一時的な「大坂行幸」を提案し、これが決定する。

3月21日 京都を出発、23日に大坂に到着した天皇は、天保山の軍艦を観覧するなど、40日余りに渡って引っ張り回され?京に戻った。
当然、その間に遷都の策が練られ
「遷都しなくても衰退する心配のない浪華より、世界の大都市となり遷都しなければ市民が離散して寂れてしまう江戸にこそ遷都すべき」と言う前島密の「江戸遷都論」が大久保に届けられ、4月11日には江戸城も開城。
一気に江戸遷都へと動き始める。

閏4月1日 大木喬仁と江藤新平が佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出。東日本を治める為に江戸を東京とし人心を掌握、東京と京都を鉄道で結ぶと言う構想も書かれていました。

5月24日 徳川家の駿府移封が決まると、東西両都案も決定的となり、
6月19日 大木と参与の木戸孝允が帝都に適しているかの調査名目で江戸に赴き、有栖川宮、三条、大久保、江藤といった面々と協議した上で京都に戻り
7月7日 遷都可能の報告をする。

そして、7月17日「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、天皇が日本を「ひとつの家族」として、東西を同一視する。と言う理由付けで東国第一の大都市江戸で天皇が政治を視る為に江戸東の都、東京と称する事を発表した。


急激に右に舵を執り始めた日本丸。
人権を無視したナショナリズムを煽り、やりたい放題の無茶苦茶を普通に通してしまう政治と報道、企業と自分たちの懐さえ安泰ならば「労働力」は人間扱いせずとも、いくらでも代わりは世界中に転がっているとでも言いたげな「大」企業。
オリンピック誘致には反対しませんが、何で東京なんだろう?
と言う疑念は、私の心から晴れる事はありません。

いっそ、皇室まるごと京都に、
否、ここは思いきって沖縄にでも移転させたらどうか?などと考えたのは、春の陽気でボケたせいだと言っておきます。

三寒四温、まだまだ油断は禁物ですぞ!
体調崩しませんように…