慶応3(1866)年6月 坂本龍馬が藩主山内容堂に大政奉還の建議を行うにあたり、長崎から京都へ向かう夕顔丸の船上での、藩の参政(藩主代理とも言える行政責任者)後藤象二郎との相談を海援隊士の長岡謙吉が書き写したとされている船中八策。
書き写したはずの写本も残っておらず、真偽は不明ですが、
10月14日の大政奉還の後の11月に龍馬自身が提出した、「新政府綱領八策」はきちんと残っているようです。
国会図書館にも所蔵されている「新政府綱領八策」。
主な内容は、
1)天下有名の人材を招致し顧問に供う
2)有材の諸侯を選用し、…、有名無実の官を除く
3)国際条約の議定
4)憲法制定
5)両院議会政治の導入
6)海軍、陸軍の編成
7)親兵の組織
8)金銀物価を外国と平均す
前年の3月~5月にかけてに横浜で発行されていたのジャパンタイムス(当時は週刊)に寄せられたイギリス公使パークスの通訳官アーネストサトウの「English Policy」(匿名で投稿)に書かれていた主な内容が、
1)将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席に過ぎず、条約はその将軍とだけ結ばれたものである。従って現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できない。
2)独立大名たちは外国との貿易に大きな関心を持っている。
3)現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
これは、「英国策論」として訳され、
66年末の時点で、既に慶喜他、土佐藩主の山内容堂ら諸侯と目されていた有力政治家は知っていた可能性が高いようです。
時系列で追うと、
大政奉還が慶応3年10月14日。
これに、「よくぞご決断くだされた。」と感動した龍馬が、慶喜を新しい枠組みの諸侯のトップに考えていたとしても不思議ではありません。
ところが、商売人としての龍馬の能力を買って援助していたグラバーや、何としても幕府を倒したい虐げられて来た下級公家の岩倉具視、長州、薩摩(の一部)にとって龍馬が慶喜を担ぐのは阻止したかったのでしょうか?
大政奉還から、僅か1ヶ月後の慶応3年11月15日。
近江屋で不意討ちに遭った龍馬と同席していた中岡慎太郎は暗殺されてしまいます。
それから1ヶ月
12月9日に岩倉や薩摩の大久保利通ら主導の王政復古のクーデターが起きているのも偶然ではないでしょう…。
龍馬は死後に英雄に仕立てられたのかもしれません…。
書き写したはずの写本も残っておらず、真偽は不明ですが、
10月14日の大政奉還の後の11月に龍馬自身が提出した、「新政府綱領八策」はきちんと残っているようです。
国会図書館にも所蔵されている「新政府綱領八策」。
主な内容は、
1)天下有名の人材を招致し顧問に供う
2)有材の諸侯を選用し、…、有名無実の官を除く
3)国際条約の議定
4)憲法制定
5)両院議会政治の導入
6)海軍、陸軍の編成
7)親兵の組織
8)金銀物価を外国と平均す
前年の3月~5月にかけてに横浜で発行されていたのジャパンタイムス(当時は週刊)に寄せられたイギリス公使パークスの通訳官アーネストサトウの「English Policy」(匿名で投稿)に書かれていた主な内容が、
1)将軍は主権者ではなく諸侯連合の首席に過ぎず、条約はその将軍とだけ結ばれたものである。従って現行条約のほとんどの条項は主権者ではない将軍には実行できない。
2)独立大名たちは外国との貿易に大きな関心を持っている。
3)現行条約を廃し、新たに天皇及び連合諸大名と条約を結び、日本の政権を将軍から諸侯連合に移すべきである。
これは、「英国策論」として訳され、
66年末の時点で、既に慶喜他、土佐藩主の山内容堂ら諸侯と目されていた有力政治家は知っていた可能性が高いようです。
時系列で追うと、
大政奉還が慶応3年10月14日。
これに、「よくぞご決断くだされた。」と感動した龍馬が、慶喜を新しい枠組みの諸侯のトップに考えていたとしても不思議ではありません。
ところが、商売人としての龍馬の能力を買って援助していたグラバーや、何としても幕府を倒したい虐げられて来た下級公家の岩倉具視、長州、薩摩(の一部)にとって龍馬が慶喜を担ぐのは阻止したかったのでしょうか?
大政奉還から、僅か1ヶ月後の慶応3年11月15日。
近江屋で不意討ちに遭った龍馬と同席していた中岡慎太郎は暗殺されてしまいます。
それから1ヶ月
12月9日に岩倉や薩摩の大久保利通ら主導の王政復古のクーデターが起きているのも偶然ではないでしょう…。
龍馬は死後に英雄に仕立てられたのかもしれません…。