1907年 フランス南東部のグルノーブルの豪農家庭に生まれたロッシュ。
大学に進学するも半年で退学。
マルセイユで3年間貿易を学んだ後、父の経営する農場を手伝うべくアルジェリアへ渡り32年に渡る北アフリカでの生活が始まる。
ここで部族長のアブド・アルカーディルとも親交を結ぶなどしてイスラム教に改宗するに至り、現地の人たちに信頼を得る。

1830年に始まるフランス軍によるアルジェリア侵略に対し、ジハードを宣言し抵抗運動を続ける指導者アルカーディルとの停戦交渉をフランス軍の通訳、交渉役として任されると、その言語力とイスラム文化への精通度から、アラブの首長からも信頼を得て、より一層重要視され、
モロッコ、チュニジアと外交官として経歴を重ねる。

そんなロッシュに対しフランス帝国は
1863年 遠く極東の島国で開国したばかりの日本の公使として任命。全くの未知の国へ着任する。
1864年9月の四ヵ国連合艦隊による下関攻撃の際には、同年齢のイギリス公使オールコックらと歩調を合わせるが…。
12月 幕府から製鉄所と造船所の建設の斡旋を依頼され、
イギリス公使として赴任してきた横柄なパークスに対する対抗心もあって?幕府に肩入れするようになる。

その後、横須賀製鉄所の建設や横浜フランス語伝習所の設立、パリ万博への参加推薦などに加え、軍事顧問団を招聘して幕府の精鋭部隊である伝習隊を西洋式陸軍に訓練するなど異常な肩入れは続くが、幕府の敗北に伴い、自身も外交団の中で孤立。
江戸へ脱出した慶喜を追い、江戸城へ三度も登城し再起を促すものの、慶喜に拒否され諦めて兵庫へ戻り、やむなく他国の外交団と共同歩調を取る事となる。
(結局、「個人外交」の敗北により罷免され、1868年6月23日(慶応4年5月4日)日本を離れる)



1830年に始まったフランス軍のアルジェリア侵略。
北アフリカにある鉄鉱石などの資源に目をつけたロスチャイルド家の一員、ジェイコブ(ジェイムス)が、資源を我が物とする為に国王に莫大な資金を提供(国債として借金させています)して引き起こしたものです。
これを手に入れたジェイコブは自身を鉄道王に導いた鉄鉱石のみならず、大麦、小麦、石油に巨大な天然ガス田まで利権にありつき現在に至っています。

先日の人質事件を誘発したマリ。
この国にある金やウラン目当てで誰かの指示で軍が動いたとすると…。
人の欲は尽きる事はないようで…。
1834年 会津藩の名家 神保家の長男として生まれた長輝。
幼少の頃から学問に秀で秀才と謳われ、
幕末の動乱に伴う各藩の藩政改革に乗り遅れまいと、会津藩も藩主松平容保により、人材登用や軍政改革を断行。
特に、長輝や佐川官兵衛(後に薩長の志士から「鬼の官兵衛」と恐れられるほど武勇猛敢)の将来を嘱望し、若くして藩の重役に登用した。
容保が京都守護職として上洛後も、側近として国事に奔走。
1866(慶応2)年には、軍事教練の西洋化の命を受け長崎に派遣。
ここで忌憚なく志士達とも交流。
国外事情に通じ、若き伊藤俊輔(博文)や坂本龍馬など倒幕派の志士から高い評価を受けていた為に後々嫌疑をかけられる事となるのだが…。

長崎から帰った後、藩兵の制度を改革、白虎隊を生み出すが…。

大政奉還から王政復古と、幕府、会津藩にとっては事態が悪化。
主戦論が高まる中、長輝は慶喜に対し不戦恭順を進言。
主戦派の急先鋒の官兵衛らと激しく対立する事となる。

慶応4年1月 鳥羽伏見の戦いを引き起こしてしまった幕府軍。
長輝も軍事奉行添役として出陣。
兵力では圧倒していたのだが、様子見の藩が多く?鳥取藩、津藩などは寝返り、圧倒的不利に追いやられる。
4日 倒幕軍が朝廷を取り込み錦の御旗を掲げ官軍となり、長輝は朝敵となる事を恐れ、主君容保と慶喜に再度恭順を進言するが慶喜は徹底抗戦を命じ、自身は容保ら一部の側近を連れ江戸へ脱出、長輝だけでなく完全に戦意を喪失してしまった幕府軍はあっさり敗北してしまう。

藩主不在となった藩内では、恭順を進言した長輝に非難が集中。
各藩も、これに乗り幕府軍全藩から敗戦の原因を作った悪人にされてしまい、幽閉処分となる。
厳罰を主君容保に迫る動きに対し、勝海舟が働きかけ、長輝を救うべく身柄の引き渡しを画策するものの、何とか責任を押し付けたい抗戦派の陰謀で弁明の余地すら与えず、切腹を命じる旨を下す。


この命を、偽りと知りながら、潔く自決を決意した長輝。
『帰りこん ときぞ母の待ちしころ
はかなきたより きくへかりけり』
の句を残して旅立った。

新島八重という人を題材に八重桜とかけて大河で宣伝している局に恨みはありませんが、一方では、同じように会津戦争を戦い、不運にも捕虜となり凌辱?の末に敵藩護衛の短刀を借り自決を果たしたのが、長輝の妻と言う運命の皮肉。
八重さんみたいにうまく世の中を渡れる人は一握りなんですけどね。
1863年の下関外国船砲撃事件により、横浜に次いで重要な長崎貿易への航路を封鎖された事と、長州藩の攘夷運動により幕府の開国(売国?)政策の後退を恐れたイギリス公使オールコックは、文明国の力を思い知らせ攘夷を諦めさせるべく武力による懲罰を決意。
これに同調したアメリカ、オランダ、フランスも加わり4国艦隊が編成され長州藩の成敗に向かった。

一方、イギリス本国では、自国の商船が直接被害を受けていない事もあり(一番は戦費が嵩む事)静観の構えでオールコックの要望も却下するべく書簡を送るも、当時は2ヶ月以上かかった為に武力行使が行われた後に届き、命令違反によりオールコックは解任、後任にパークスが就いた。
この時、イギリス留学中の伊藤俊輔(博文)と井上聞多(馨)は無謀な戦いを止めさせるべく帰国し藩に掛け合うものの、現実を認識できていない(勝てると思っている)藩を説得できず、結局制裁的な攻撃を受ける事となる。

1865年 上海(領事)から横浜に赴任したパークスは、長州征伐で将軍家茂始め主要幕閣が大坂城に居た為
フランス、オランダと連合艦隊を組み兵庫沖へ向かい、朝廷、幕府との交渉に臨み、下関戦争の賠償金支払いに困窮している幕府の足下を見透かし、賠償金を2/3減免する事を餌に条約の勅許と関税率の改正(低減)、兵庫港の早期開港を要求する。

1866年6月26日(慶応2年5月13日)
英、米、仏、蘭、四ヵ国代表と幕府老中水野忠精との間で、安政5ヵ国条約の改訂協約が調印。
兵庫港の開港こそ拒否したものの、条約の勅許と関税率の低減は承認。
原価の一律5%と言う低い値の従量税方式に変えてしまい、国内のインフレと相反し安い外国製品が大量に輸入され、国内資本は困窮。
関税自主権もなかった為に関税を上げたくとも上げられず関税による収入が全く期待できない偏った輸入が後々(1894年の条約改正)まで続く事となる。

2013年。
政権政党と首相の顔だけは変わったものの、「消費税増税」「TPP加盟」「売国」など主要な政策は驚くほど変わっていない現在。メディアは消費税増税を既成事実にしようと毎日のように洗脳を繰り返し、TPPも参加ありきで「刷り込み」に躍起になっています。
250年ほど前の幕閣や知識人?と言われた人たちも、現在の国のトップ連中も『これが正しい』と、同じ罠に引っ掛かっているのではないか?
そう思えてなりません。
一体どこへ行くのやら…。