1858(安政5)年6月に大老井伊直弼の強権により無勅許で日米修好通商条約が結ばれると、イギリスを始め欧州各国も次々と群がり、「安政5ヶ国条約」に発展。
最大の失点である金銀等価交換により(4倍の価値の違いで、ハリスやオールコックと言った総領事でさえも両替して莫大な利益を獲得)、金が国外に大量流出。
慌てた幕府が是正を求めるも、条約で一度結んだ美味しい餌を手放すはずがなく、国内の金(通貨)はたちまち不足、激しいインフレに見舞われ、尊攘運動は一層激しくなった。

1860年 ワシントンで行われる批准書の交換の為、外国奉行 新見正興を正使とした使節団を派遣。
目付(本来は不正監察)として同行した小栗忠順には通貨交換レート変更の交渉が託されていた。
米海軍ポーハタン号に乗り込んだ使節団77名。
随行した(結果的に足を引っ張った?)カン臨丸には、勝海舟など海軍伝習所出身のメンバーと通訳のジョン万次郎、軍艦奉行並木村喜毅の従者福澤諭吉などが乗り込み出発。
途中、嵐に遭うなどしながらも約1ヶ月半でサンフランシスコに到着。
ワシントンでブキャナン大統領に謁見し批准書を交換。
小栗も何とか自説の正当性だけは認めさせるも合意は叶わず、
ニューヨークで空前の大歓迎を受けるなどパンダ並みの見せ物旅行を終え帰国の途につく。

1862年1月(文久元年12月)今度は安政5ヶ国条約で約束した江戸、大坂などの開港と開市の延期交渉の為に英国海軍オーディン号に外国奉行兼勘定奉行の竹内保徳を正使として、福澤諭吉、寺島宗則など総勢38名が乗り込み品川を出港、長崎、香港などを経由してエジプトに到着。
鉄道、船を経由してナポレオン三世のパリへ行き交渉するも失敗。
ロンドンへ移り、しこたま儲けて親日家となった?総領事オールコックの帰国を待ち交渉。開港を5年延期(1868年1月1日)するとしたロンドン覚書が調印された。

オランダ、プロイセンとも同様の覚書を締結し、ロシアに乗り込み国境問題を話し合うものの合意に至らず、ロンドン万博を観光するなど一年に及ぶ長旅を終え帰国する。


奇しくも、アルジェリアの事件とフランス軍のマリへの侵攻で浮き彫りになった旧植民地。
未だに彼ら両方の潜在意識には、植民地時代の関係が根深く残っているようです。翻って、日本とアメリカを始めとした連合国。
我々(と彼ら)の間にも同じ意識が横たわっていると認めざるを得ないのも確かなのですが
12月9日(1868年1月3日)の王政復古の大号令の後、12日の深夜に二条城から大坂城へと移った慶喜。
新政府に「恭順」の意を示しながら連絡は途絶え、
一方で16日にはアメリカ、イギリス、フランス、など6カ国の公使と面談し「内政不干渉と外交が旧幕府側にあると言う事」を認めさせ
19日には朝廷に対し、
「王政復古の大号令の撤回」を公然と要求。朝廷も22日に、
大号令の撤回こそしなかったものの、事実上の徳川家による幕藩体制の維持を認めるような(ほぼ慶喜の要求が受け容れられた)告諭を発令。
復権へ向け流れは完全に慶喜に向かっていた。

一方、将軍就任後ほとんど江戸には帰らなかった慶喜に加えて、幹部も大坂城へ詰めていた為、
留守を預かる江戸では、尊攘派が三田の薩摩藩邸を拠点として、放火や略奪、暴行など様々な悪行で幕府側を挑発(幕府側を援助する豪商や役人などを狙い撃ちして、わざと薩摩藩邸に逃げ込み報復攻撃を誘う)。
大政奉還後は行動が激化、王政復古の大号令の後は旧幕府の取り締まりを担当していた壬生藩、庄内藩などと公然と戦闘まで繰り広げ、薩摩藩邸へと逃げ込んでいた。

12月24日 江戸での将軍の留守を預かる老中で淀藩主の稲葉正邦が庄内藩留守役、松平権十郎に「賊徒の引き渡しを求めた上で従わねば討ち入って召し捕らえよ」と下命。
私怨の謗りを逃れたいと言う要望に応え、4藩合同の事実上の討ち入りが決まる。

25日未明、薩摩藩邸を包囲した上で賊徒の武装解除と引き渡しを通告するも、藩邸側は当然応じず討ち入りが始まる。
圧倒的な兵力差と突然の襲撃で約3時間後には藩邸は火の海となり、予てから脱出を指示されていた浪士達は数組に別れて逃走。
道筋の民家に放火するなどして追っ手を混乱させながら薩摩藩の運搬船翔鳳丸が停泊するへと向かう。
ところが、幕府軍艦回天丸が翔鳳丸に接近。翔鳳丸は錨を上げ逃亡せざるを得なくなり辛うじて乗り込んだ28名の浪士以外は置き去りにされ捕縛と相成った。

12月28日 事の詳細が大坂城詰めの徳川家幹部の下に届くと、「薩摩討つべし」の声に圧され、策略で政権に復帰しようとしていた慶喜や老中(松山藩主)板倉勝静も「討薩」を承認。
慶応4年元日(1868年1月25日)
慶喜から「討薩表」が発せられ、薩摩の目論見通り武力抗争へと進んで行った。

不正選挙や世論誘導など、
今も変わらず『権力』は、かくも醜いもののようで…。
慶応と言えば、大学が思い起こされますが、江戸時代最後の年号でもありました。
奇しくも、この名称に改元する時に、もうひとつあった候補が『平成』だったと言うから、ある意味「時代が変わるべき年号」なのかもしれません。
慶雲が、めでたい事の起こる前兆の雲の意ですから決意の程が窺えます。
名付けたのは孝明天皇。
慶雲と言う年号も奈良時代にあったようですから、古の人の言葉に対する思い入れは、言葉の軽い我々も見習うべき事のような気がします。


さて、その慶応年間。
特に慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還が慶雲の兆しだったのかもしれません。
慶喜にしてみれば、戦略上、致し方なく形だけ返して実権は握り続けるつもりのようでしたが、
12月9日(1868年1月3日)
岩倉具視を中心とした諸藩の有力者により王政復古の大号令と言うクーデターが起きてしまいます。

15歳の明治天皇を「天子様」と称し担ぎ上げ、
『打倒江戸(徳川)幕府』に
小異を捨てて勢力を結集した公家(岩倉具視ら)衆と諸藩。
この政変の中心としてに加わった徳川家の親族である越前藩の松平春獄や尾張藩の徳川慶勝なども、恐らく徳川本家の状況を変える為に一度政権を朝廷に預け、再び慶喜に政権の中枢でやってもらおうと言う目論みがあったかもしれませんが、薩摩や長州がそれを許すはずもなく、慶喜の配下の会津藩など強硬派により戊辰戦争へと雪崩れ込んでしまいます。

因みに、この政変の時に、かつて長州藩が禁門の変で出し抜かれた時と同じく、
公家衆の会議が終わり退出した後の御所の9つの門を封鎖。
幕府側と長州藩始め公家衆の立場が禁門の変とは全く逆に変わったと言うのも皮肉な巡り合わせです。


『学ぶことは変わること』
かつての作家の灰谷健次郎さんと、教師であった林竹二さんとの対談でのお互いの共通認識です。

『変わらなければ、学んだ意味がない』
とも言えるこの言葉は、
ともすれば、『分かったつもり』になってしまいがちな我々の日常に深く突き刺さる諫言として心に留めておきたいものです。
悪い習慣や悪い考え方(だいたい自分で分かっているんですよね!)をひとつでも変えて行けば、人生も意外と楽しいモノになるかもしれませんぜ!
(^_^)v