1846年 仁孝天皇亡き後、第八皇女として御所近くの橋本邸で生まれた(母 橋本経子は側室)和宮。
名付け親は天皇になったばかりの異母兄孝明天皇。
1851年 わずか5才で孝明天皇の命により有栖川宮親王と婚約するが、幕末の動乱は和宮の運命をも大きく変えてしまう。
公武合体策の一環として、14代将軍家茂の御台所(正室)へ皇女の降嫁が画策されて(当初は和宮ではなく生まれたばかりの天皇の皇女、富貴宮を考えていたらしい)いたが、和宮の婚礼が翌年の冬に決まった同じ年に富貴宮が逝去。
幕府側は和宮の降嫁に向けて生母や叔父など外堀の説得に傾注しだした。
こうして、「攘夷の実行と鎖国の復活」を条件にまとめられた和宮の降嫁は、
1862年2月、
内親王和宮を主人、将軍家茂を客分とする歴代将軍と全く様相も身分も逆の
「逆玉の輿」のような形で婚礼が執り行われ、後々まで江戸城内で尾をひく事となる。
結婚はしたものの、今さら外国と結んだ条約を破棄できず、かといって勝つ見込みのない戦争もできず、「攘夷」の実行できない幕府に対して度々上洛を促し、義弟でもある将軍家茂自ら何度も江戸と京の往復をし、
1865年5月 長州征伐に赴く家茂に、
『土産は何が良いか?』
と聞かれた和宮は、西陣織を所望。
まさか、今生の別れになろうとは…。
8月 生母の逝去から悪い流れが和宮に襲いかかる。
翌年7月には家茂が、
同年12月には孝明天皇が相次いで逝去。
1年余りで3人もの大切な人を失ってしまう。
悪夢は終わらず、翌年、かつての婚約者であった有栖川宮親王が、朝敵となった徳川家を討つ為の征討軍の総大将として江戸に向かって来ていた。
戊辰戦争からいち早く江戸城に逃げ帰って来た慶喜は、家茂の死後に「攘夷の実行」を願う書状を送られた際にはシカトした和宮に朝廷への取り成しを頼み、
謝罪のみ引き受けた和宮の尽力と存在で、勝海舟や西郷隆盛らによる「江戸城無血開城」という歴史的快挙が成し遂げられ、徳川家も駿府移封という処分で済んだ。
『空蝉の 唐織り衣 なにかせん
綾も錦も 君ありてこそ』
家茂の形見となった西陣織を、家茂が葬られた増上寺に歌と共に奉納。
生前の「家茂の傍に葬って欲しい」
という願い通り、
明治10年に32歳の若さで亡くなった後には増上寺に埋葬された。
歴代将軍で唯一、側室を持たなかった家茂とのわずか4年半の結婚生活。
愛は時間ではないんですね…
名付け親は天皇になったばかりの異母兄孝明天皇。
1851年 わずか5才で孝明天皇の命により有栖川宮親王と婚約するが、幕末の動乱は和宮の運命をも大きく変えてしまう。
公武合体策の一環として、14代将軍家茂の御台所(正室)へ皇女の降嫁が画策されて(当初は和宮ではなく生まれたばかりの天皇の皇女、富貴宮を考えていたらしい)いたが、和宮の婚礼が翌年の冬に決まった同じ年に富貴宮が逝去。
幕府側は和宮の降嫁に向けて生母や叔父など外堀の説得に傾注しだした。
こうして、「攘夷の実行と鎖国の復活」を条件にまとめられた和宮の降嫁は、
1862年2月、
内親王和宮を主人、将軍家茂を客分とする歴代将軍と全く様相も身分も逆の
「逆玉の輿」のような形で婚礼が執り行われ、後々まで江戸城内で尾をひく事となる。
結婚はしたものの、今さら外国と結んだ条約を破棄できず、かといって勝つ見込みのない戦争もできず、「攘夷」の実行できない幕府に対して度々上洛を促し、義弟でもある将軍家茂自ら何度も江戸と京の往復をし、
1865年5月 長州征伐に赴く家茂に、
『土産は何が良いか?』
と聞かれた和宮は、西陣織を所望。
まさか、今生の別れになろうとは…。
8月 生母の逝去から悪い流れが和宮に襲いかかる。
翌年7月には家茂が、
同年12月には孝明天皇が相次いで逝去。
1年余りで3人もの大切な人を失ってしまう。
悪夢は終わらず、翌年、かつての婚約者であった有栖川宮親王が、朝敵となった徳川家を討つ為の征討軍の総大将として江戸に向かって来ていた。
戊辰戦争からいち早く江戸城に逃げ帰って来た慶喜は、家茂の死後に「攘夷の実行」を願う書状を送られた際にはシカトした和宮に朝廷への取り成しを頼み、
謝罪のみ引き受けた和宮の尽力と存在で、勝海舟や西郷隆盛らによる「江戸城無血開城」という歴史的快挙が成し遂げられ、徳川家も駿府移封という処分で済んだ。
『空蝉の 唐織り衣 なにかせん
綾も錦も 君ありてこそ』
家茂の形見となった西陣織を、家茂が葬られた増上寺に歌と共に奉納。
生前の「家茂の傍に葬って欲しい」
という願い通り、
明治10年に32歳の若さで亡くなった後には増上寺に埋葬された。
歴代将軍で唯一、側室を持たなかった家茂とのわずか4年半の結婚生活。
愛は時間ではないんですね…