3月25日に行われた埼玉県戸田競艇場での優勝戦で、71歳の快走老人、加藤峻二選手が優勝致しました。
71歳でプロスポーツと言う厳しい世界の現役選手として大きな怪我も故障もせずに戦っている事自体が驚きなのに、狭い戸田水面の3コースという難しい位置から、展開を突いて判断良くコーナーを旋回。
転覆事故の影響もあり、先頭に立った時点でほぼ決着。
見事に優勝と言う快挙を成し遂げました。
これが、どれだけ凄いことか?
一般に、競艇は小回りコースで争われる為に内側が有利なスポーツです。
この優勝戦のメンバーは、
1号艇 佐藤翼選手 24歳。
前期半年間の成績が一着30回(28.6%)
優勝戦進出5回で優勝1回。
A1クラスと言うトップクラスをキープするバリバリの若手レーサーで、このシリーズも6走して一着4回。
このレースも優勝の大本命と目されていました。
2号艇 西田靖選手 51歳。
前期成績で一着46回(35.1%)
優勝戦進出4回で優勝0回。
今シリーズ7走中一着4回。
3号艇が加藤峻二選手 71歳。
前期成績での一着は100走して9回と明らかに衰えを見せ、優勝戦進出もなくメンバー中唯一のB1クラスという格下のランクも、今シリーズ抜群のエンジンで5走して一着2回、二着一回と好成績で穴人気になってはいたのですが…。
この他に、4号艇と5号艇が20代の選手で6号艇に53歳のベテランが陣取りレースが始まりました。

ピットからスタート地点までの速さと駆け引きで、西田選手が1コースに潜り込み、2コースに佐藤選手、3コースに加藤選手の順でスタート。
2コースから佐藤選手が強引な捲りに出ますが無理やりだった為か転覆。1コースで抵抗した西田選手も、やや膨らみ、少し空いた内側を展開を読んだ加藤選手が抜け出し、必死に追いすがる西田選手を抑えて先頭で2つ目のターンマークを回った時点で決着。
最年長優勝記録更新と言う快挙を成し遂げてしまいます。
選手生活53年、14225回走って3268回目の一着で120回目の優勝だったそうです。


この世代で活躍している?人たちと言えば、暴走老人や暴言老人、何度も高額な退職金を当然のように受け取る天下り官僚に、都合の悪い事は記事にもニュースにもしないマスコミの長老とロクなのは居ませんから、世間で邪険に?されている老人にとっても明るいニュースだったかと思われます。
私もこんなイケてる爺イになりたいものです。
明治2年5月18日 榎本らの降伏により戊辰戦争も終結。
新政府も権力を固める為に様々な策略で、抵抗勢力となり得る武士の力を削いで行く事になる。

同年1月20日 維新を成功させた薩摩、長州、土佐、肥前藩の連名で、版籍を朝廷(実際には政府)に奉還するという建白書が出され、
5月13日 上局と開所されたばかりの公議所(各藩から代表1名が出され様々な案件を諮問、提案)で諮問され承認。
6月17日 諸大名から天皇への領地と領民の返還となった。

武士道の主従関係を否定する政策に諸藩からの抵抗が予想された為に、曖昧な表現でぼかし、諸藩の代表による公議所での決定という事にして疑念を封じ込める作戦は成功。
「将軍の代わりに朝廷が」というお上任せの人心を巧みに操り、後の廃藩置県まで一気に行って中央への権力の集中を行ってしまいます。

天皇へ出されたと言う上奏文の一節。
『そもそも、臣ら居る所はすなわち天子の土。臣ら収する民はすなわち天子の民。いずくんぞ私に有するべけんや。今、謹みて版籍を収めてこれを奉る。』

今まで所有を認められていた領地と領民、そして収入をも含めて全部差し出すと言う詐欺紛いの政策ですが、薩長土肥と言う大藩が率先する事で中小の藩は異論も挟めず、274藩が順次版籍を奉還したと言いますから、日本人気質と言いますか…。

公卿、諸侯を廃して、華族と言う名称で、自分たちは庶民とは違うんですよ!と自己満足させておけば反乱も起きるまいとでも考えていたのでしょうか?

新政府内は事実上、薩摩と長州の派閥による権力争いが勃発。
双方が反目し合い、風紀は乱れ、権力をかさに旧大名の如く民に対して横暴な振る舞いをする輩が増え、失望した国民は
「新しい世の中になったと言うけれど、これでは江戸幕府の時代の方がよっぽどマシだった」と嘆く始末で、
バカバカしくなった?西郷までもが鹿児島に帰ってしまうと言う、まるで現在のような際どい状況だったようです。


原因不明と大騒ぎして、剥き出しの配電盤をネズミがショートさせ、下手すりゃ核爆発しかねない情けない実情を明らかにした東電。
105億円の除洗費用はすっとぼけて支払う意思もなく、詐欺まがいに上乗せした電気料金を支払わなければ容赦なく停止。

ネズミに壊されてしまいかねないような代物を再稼働させようと目論む政権の横暴に何も変えられないとしたら、
それは未来に対する冒涜に他ならないと思うのですが…
戦費の枯渇に加え、相次ぐ脱走兵、土方の戦死などで籠城中の榎本軍の降伏は時間の問題となっていた。

医師高松凌雲を通して榎本に降伏を勧告した黒田だったが、榎本は意地で?応じず、捕虜や傷病者の返還と共に、自らが翻訳し手書きの脚注を加えたフランスの法学者オルトランの「万国海律全書」を黒田に預け後世に残そうとしたあたりは覚悟を決めていたのでしょう。
この難解な海事に関する国際法と外交を翻訳できる程の榎本の才覚に、福澤(これを見て「榎本以外に扱えない」と能力を認めた)と黒田は、榎本の助命に尽力するのですから人生どう転ぶか分かりません。


5月15日 弁天台場の永井尚志が兵糧の枯渇で降伏。
五稜郭の前哨で戦っていた千代ヶ岡陣屋の箱館奉行並(永井の部下)中島三郎助の下にも降伏勧告が出されるも中島はこれを拒否。
翌日の五稜郭からの撤退命令をも拒否して浦賀与力時代の部下らと兵を率いて最後の戦い(箱館戦の最後の戦闘)に打って出ますが…。
結局、この戦いは一時間あまりで決着がつき、中島は二人の息子共々戦死。
戦力的に勝ち目の全くない戦いであった事は明白で、軍議では他の幹部に降伏を説きながら、自身は討死する事を周囲に公言していたと言いますから覚悟を決めていたのでしょう。
辞世の句で、『ほととぎす 我も血を吐く思い哉』と詠っています。
持病の喘息と、血を吐くまで鳴くと言われるほととぎすの悲運を想ったのでしょうか?
当然のように死を選んだのは、最後の意地、自分自身へのケジメだったのかもしれません。

長崎海軍伝習所一期生として学んだ中島。
自宅を寄宿舎として造船学を教えるまでになり、そこで学んだのが若き日の桂小五郎(木戸孝允)。
後に政府高官となってからも恩義を忘れず、中島父子の死を大変悲しみ、三郎助の娘を養女にして面倒を見ようとしたようです(家庭事情で断念し榎本に託す)。
1876(明治9)年に明治天皇の東北巡幸に随従し中島が戦死した地の近くを通過した際には、人目も憚らず号泣したと言いますから相当の想いがあったのでしょう。



歴史に名を残したいのか、昨今の首相は筋の通らない無茶ブリを、あたかも正義の如く通そうとしています。
郵政、消費税、TPPに憲法改正…。
日米同盟と言う事実上の主従関係にどっぷり浸かり、過ちも正せず言いなりになる姿に武士道の精神を求めても虚しいだけですが…。
自分の未来は自分で決めないと大変な事になりそうです…。