田沼を重用(事実上任せていた)した家治には息子がいて跡継ぎとして順調に成長、元服を迎え家基と名乗っていた。
幼少期から父、家治同様聡明で(家治も幼少期に吉宗に将来を有望視されるほど聡明で直接手ほどきを受けるなど寵愛されていた)文武両道の才を見せ、政治に関しては老中田沼の政治を批判するほどであった。
1779年 鷹狩りに行った18才(満16才)の家基は帰りに品川の東海寺に立ち寄って一服していたが…。
体調が急に悪化しわずか3日後に還らぬ人となってしまう。
家治は食事も喉を通らぬほどに嘆き悲しみ政治はすべて田沼に丸投げして、自身は趣味でもあった将棋に没頭してしまう。

その心の隙をついた田沼は御三卿の一橋家当主徳川治済と結託し、治済の長男豊千代を男子のいない家治の養子家斉として後継に決めてしまった。

家基が生まれる4年前、御三卿の1つ田安家にも賢丸が生まれ、その聡明さから将来の田安家当主、行く行くは将軍候補として周囲の期待を一身に集めていた。
成長に伴い、田沼の賄賂政治を批判、存在を疎まれるようになると…
治済は、息子のライバルと目されている賢丸を、1774年 陸奥白河藩主松平定邦の養子として押し込んでしまう。

1786年 脚気による心不全?で寝込んだ家治に田沼が医者を呼び薬を処方すると体調が更に悪化し死亡、田沼陰謀説が囁かれる事となる。
この後、松平家の養子定信は既に田沼に賄賂を贈り幕府の閣僚となっていて、11代将軍となる家斉の父治済と結託、家斉の将軍就任に合わせ長年激しい憎悪を募らせていた田沼を失脚させる事に成功する。

史料にも独断と偏見が混じっていて真実は分かりませんが、田沼と治済が結託して家基を殺し、更に松平定信と治済が結託し(田沼に濡れ衣を着せて)家治を殺害したと推測すると、その後の展開が納得出来ます。
家斉は将軍就任、定信は家斉の後見役として老中首座に座り、一橋家にも田安家にも目障りな田沼は失脚…。

将軍に就任した家斉(15才)は50年に渡り将軍職を務めますが、晩年になっても代理を立ててでも家基の命日には必ず墓参したそうです。
父、治済が殺したと思っていたのでしょう。

足軽から老中にまで登り詰め、絶大な権勢を誇っていた田沼を徹底的に処罰した事からも、田沼と治済は深く関わっていたのでしょうが…。

悲しき宰相の邸前では今日もデモがありましたが、果たして彼の耳に人間の声は聞こえるのでしょうか…?
8代将軍吉宗の時代に紀州藩の足軽から吉宗の側近として共に江戸城に入った父、意行の跡を継ぎ、9代目の病弱な家重を支えた意次。
10代目の家治になっても重用され、
1767年には側用人として実質的に幕府を動かし始めた。

それまでの農業を主軸に据えた重農政策から一転、商業中心の政策を図り
株仲間の結成や銅座の専売制、俵物と呼ばれる中国向け海産物の俵詰めの専売制などによる上納金増収で幕府の財政は急速に好転。
蝦夷地の開発やロシアとの貿易を企図。
蘭学を奨励して平賀源内や杉田玄白らを登用するなど、
もしうまく行っていたら開国していたかと思われるほどの開明派であったようです。
しかし…、
印旛沼干拓の失敗や極端な資本主義政策による都市部の発展を尻目に利益が薄い為に農業及び農村が荒廃。
町人や役人の間でも急速な貨幣の流通で贈収賄が横行、経済成長の代償は一揆や犯罪の増加を都市部にもたらした。

追い打ちをかけるように、
1772年には明和の大火により江戸の町が焼き尽くされ(目黒で出火し~放火~千住まで燃え広がり死者行方不明者合わせて約2万人に及んだ)、
1783年には岩木山(青森)、浅間山(長野~群馬)が相次いで大噴火。
天明の大飢饉を誘発、食糧難や疫病が蔓延、対策も裏目に出て事態を悪化させてしまい改革どころではなくなってしまう。
そんな中、慢性的な財政難に喘いでいた諸藩は米価の値上がりを借金返済の好機ととらえ、検地により年貢を厳しく取り立てるという不況に喘ぐ庶民から増税でむしり取るような真似をした為に一揆や打ち壊しが激化、都市部の治安の悪化と元々江戸商人の権益が主流だった田沼の商業政策に批判が集中、贈収賄の嫌疑をかけられた。
1784年 息子の意知が江戸城内で暗殺され権勢が衰え始め、
1786年に将軍家治が死去すると、一気に失脚へと追い込まれ老中の辞任に止まらず、財産の没収や減石、江戸屋敷の明け渡しなど徹底的に処罰されて悪人のイメージを植え付けられ、
1788年 寂しい最期を迎えてしまった。

意次が藩主を務めた相良藩では、非常に正統的で的を得た政策を行っていた為に、現在も藩主様のイメージが強いようです。
この相良藩のお膝元の御前崎市にある日本で一、二を争うほど危険な浜岡原発。
中部電力にしてみれば大飯同様に金の成る施設はたとえ住民に被害をもたらそうと動かしたくて仕方がないでしょう。

いつまで、こんな事が続くのでしょうか…
時は貞享元(1684)年10月21日。
何と、西暦862年から使われ続けていた古い暦を大和暦として一新する事が決まった。
800年以上に渡って使われ続けた宣明暦と言う中国の暦法は、あまりに長く使われ続けた為に実際の天行より2日先行、日本各地でもズレまくる暦から独自の暦に切り替えられていた為に地域で日付に誤差が生じていた。
そんな時、元々、碁の棋士として幕府に雇われていた渋川春海がその勤勉さから習っていた天文学や暦法を用いて中国の授時暦という精密な天体観測をした暦を当てはめて朝廷に上申したが、日蝕の予想がずれた為、一度は却下され天体を観測するなど研究を重ね、失敗の原因を中国との経度の差や時差にあると気づき再度自分の作った暦法を売り込み、中国依存性(実際、この時も明の大統暦に変えるべく詔まで出ていた)からの脱却に成功した。

鎖国中とはいえ、中国との貿易は出島のオランダ商館を通じて行っていた上に、歴史的にも大陸の文化として中国に倣ってきた社会でこれを変えられたのは、丹念な研究に基づく正当性と、碁や神道を通じて知り合っていた徳川光國や土御門泰福といった有力者に口添えをしてもらったと言うのも大きいでしょう。
幕府お抱えの棋士ですから食うには困らなかったはずですが、知を追求して歴史を変えた研究熱心さは、ゲームやコンピューターで結果をすぐに出したがる我々も見習う必要があるかと思います。



「キレる」だとか、
「リセットする」など、
他人に対しては絶対にやってはいけない事がゲーム感覚で行われている現在、我々の精神の病巣は根深くなかなか変わる事など出来ないかもしれません。
しかし、変わろうと足掻き苦しむ事で新しい『何か』を発見することもあるはずです。
悩みとか迷い、苦しむ時間は絶対に無駄ではありません。
どうか打ち克ってください!
自分の心に勝てるのは自分しかいません。世話になっている訳でもない他人に人生を左右される筋合いはありません。
自分の命の責任をとることのできる唯一の存在、自分を信じて生きまっしょい!


心頭滅却すれば火もまた涼し。
…んなわけないやね。
夏の暑さニモマケズ、不快な湿気にもマケズに強い気持ちでお願いしやす!
('◇')ゞ