人間の都合に合わせたモノは何れ不都合が生じるもので、時間や暦もそのひとつです。
古代中国では、過去に関する記録を「歴」と言い、現在から未来に関する記録を「暦」として表した、いわば占いに近い予測の事象だったようです。
暦が使われ始めたのも、古代エジプトでナイル川の氾濫に周期性があることに気づいた事から始まり、
昼夜の太陽の自転を「日」
月の満ち欠けの周期を「月」
季節の移り変わりの周期を「年」
として天体運動の周期性に基づいている事から天文学にも繋がっています。


1699年11月スウェーデンは、それまで使っていたユリウス暦からグレゴリオ暦に変える事を決定。
11日のズレが生じていた事から、翌1700年から11年かけて1年に1日ずつ飛ばす事で1712年にスムーズに移行しようとした。
ところが…。

1700年は、「改暦作業の開始」を理由に例年通りの暦を使用。
翌年以降も同じで、しかも1704年と1708年にはご丁寧にも閏年として閏日を設けた為にズレが大きくなるだけでなく、世界中どこにもないスウェーデン独自の暦となってしまっていた。

1711年1月 怒った(焦った?)国王はスウェーデン暦を破棄してユリウス暦へ戻す事を布告。
翌1712年2月に閏日を2日挿入して伝説の2月30日を設けた。

それから40年余り、やっぱりグレゴリオ暦に移行します!
となると、1753年は、2月17日の翌日を3月1日として11日の差を埋めた。


さて、2014年の景気の動向を見極めて増税するから、絶対必要な消費税の増税を決めておきましょう。
などとまやかしの言葉で増税だけを決めてしまった財務省(残念ながら、民主党も自民党も公明党も財務省の下請け機関ですから)。
税金から出る自分たち(公務員)の給料と年金の為に是が非でも増税をして、搾り取る必要があるようです。

海外にばら蒔いたほとんど無駄金と化している金が14兆円以上。
増税で増えると予想される税収が約13兆円。
頭おかしいのか?国民をナメてるのか?
(間違いなく後者でしょうね)


デモと言う集団行動は、はっきり言って好きではないのですが、黙って従っていると本当に『正直者ほど馬鹿を見る』事になっています。
デモが嫌ならせめて投票に行って綺麗事ばかり言って何も変える気のない詐欺師を落選させましょうよ!
『とりあえず、食えるからいいや』
じゃ何にも変わらないんですけど…。

尾張藩主として幕府より先を行きすぎたが為に潰された徳川宗春。
彼が書いた家訓には現代にも通用するモノが有りますので紹介します。

第1条 大きな愛と広い寛容の心で仁徳ある政治を!
第2条 愛して敵なし、権現様のように仁者であれ。
第3条 冤罪は国の恥。罪科はとことん調べ尽くせ。
第4条 継続は力なり。私欲に走らず志を最後まで持て。
第5条 学問の第一は愛情。小賢しい学問より自分に正しくあれ!
第6条 適材適所。どんなものにもそれぞれの能力がある。
第7条 好きこそものの上手なれ。他の者の心情を察するように。
第8条 規制は必要最小限で良い。法令は少ないほど守る事ができる。




第16条 失敗は発明の母。大器量の者も若い頃は羽目を外すことはある。
第17条 人の命は金では買えぬ。生命は尊く常日頃の用心が肝要。




第21条 「まぁえぇがや」が臣下に対する主君の心得。古参新参男女を問わず平等に深く愛情を示せ。


1730年に七代目の尾張藩主として就任し
1732年に主だった藩士に配られた手刷りの本(パンフレット?)の書き写しが世間に出回り(当時は本もすべて手書きで書き写し)流行しかけ、京都の出版社から出版される寸前に京都所司代の町奉行所により出版差し止め処分を受け、出回っていた手刷り本までも回収されるという、今も昔もお上にとって都合の悪い真実を庶民に知られてしまうのは困ることなんでしょう。


『国民の生活が第一』
という新党が昨日、産声を上げましたが、公共放送であるはずのNHKは、
独自の世論調査(関係者?)で支持率が低いなど悪いイメージを植え付けようと必死の様子で、
朝日新聞に至っては、
「小沢氏が新党の党首である事を認めない」などと、まるで国のトップの如く勘違いも甚だしい書き方で洗脳に必死の様子です。(他紙も似たり寄ったりの表現のようです)

一体、この国のメディアは何様のつもりなんでしょう?
消費税の増税には賛成の論調を刷り込み、偽の『絆』で全国民に平等に被曝をさせ、増税しても新聞は特例。
企業は節電してもテレビは除外などとよくぞ言えたもので…。


明日、13日の金曜日、全国に拡がったデモの輪が再び声を上げます。
まだ声を上げていない地域でも立ち上がりたくてウズウズしている人は多い事と思われます。
必ず我々の手で変えましょう!
「お上」なんて存在しないモノを信じても自分の命は自分しか守れませんぜ!
33歳で8代将軍となった吉宗。
既に紀州藩主の時代に子供が居り、長男は脳性麻痺とも言われ言語不明瞭だったらしい長福丸(家重)。次男は聡明な小次郎(宗武)であった。
1745年 遂に吉宗も将軍職を退く決断をしますが、言語不明瞭な家重を9代目に指名します。

次男宗武と四男宗尹の後継争いを防ぐ為に敢えて病弱な長男に跡を継がせたとか、その後に吉宗が大御所として君臨し続けていることから動かし易い家重を選んだという見方もありますが真意は分かりません。

質素倹約が規制強化で徹底され祭りや芝居なども自粛や廃止されていた中で尾張徳川家の藩主宗春だけは、尾張祇園祭や東照宮祭り、盆踊りといった催し物を積極的に推奨、幕臣(特に老中松平乗邑)の反感を買い後に失脚してしまうが、幕府の逆を行く規制緩和と民の生活(楽しみ)を第一に考えた政策で尾張藩を活気ある街へと変えていった。

しかし…、
閣僚にとって尾張藩の成功は自分たちの失政がバレ、ひいては吉宗の権威の失墜につながるとして必死に潰しにかかる。
『冤罪』である。
尾張藩の重臣を抱き込んだ幕閣はクーデターを起こさせ、宗春の命令を全て無効として宗春以前の藩政にさせる事に成功。
1739年7月 宗春は謹慎隠居の身を余儀なくされ宗春の藩主時代の命令を全て無効として倹約令を復活、名古屋の街から賑わいが消えてしまった。

謹慎隠居中、宗春は父母の墓参りも許されぬほどの徹底した外出禁止令に苛まされるが、1745年に家重の代になると老中の松平乗邑は罷免され、更に1751年に吉宗が逝去すると民衆から恩赦が請願されるものの、宗春を認めてしまう事が吉宗を否定してしまうと恐れた幕府は恩赦を容認せず、宗春の死後にやっと謹慎を解くという愚かな時代の犠牲になってしまった。

1760年 家重の跡を継いだ10代目の家治は先代から復活した側用人として手腕を振るう田沼意次と共に規制緩和策を実行、尾張藩も宗春の後を受けた宗勝の息子宗睦が規制緩和を再開、賑わいを取り戻し『中興の祖』名君と崇められる。

宗春が出したマニフェスト『温知政要』より、
第3条『冤罪は国の恥。罪科はとことん調べ尽くせ』


ほぼ冤罪が確実な東電OL殺人事件や一連の小沢冤罪事件の責任は誰も取らず、セクハラで有罪になったり原発事故時の嘘がバレた前首相や前官房長官は不問に付す。
江戸時代から何も変わっていない社会の体質を果たして変える事は出来るでしょうか…