1789年7月のバスティーユ襲撃で幕を開けたフランス革命は、
1791年には逃亡を企てた国王夫妻を逮捕するという前代未聞の事件となり周辺国は恐怖感を抱き始めた。
8月 プロイセンとオーストリアが共同で武力介入を示唆した警告ピルニッツ宣言を発すると、これに怒った議会はオーストリアに対して宣言の取り消しを求めるものの受け入れられず、
92年4月20日 ルイ16世は、フランスを敗戦させ再び専制政治を復活させる事を目論見、宣戦布告を議会に提案し革命戦争の火蓋が切って落とされる事となった。
4月24日 ライン川畔の国境の街ストラスブールに宣戦布告の報が届き街は熱狂に包まれ、25日夜の宴会で流行の革命歌の話になり、その下劣な内容の詩を軍隊で演奏されては困るということで市長は音楽と詩の才能があるルジェ・ド・リールに新曲を依頼、リールは宴を抜け出しバイオリンで一夜の内に『ライン軍のための軍歌』を作る。

26日 曲に感激した市長は印刷などして軍隊にも配布、29日のパレードで初披露される事となる。

オーストリアに対する戦争に連戦連敗していたフランス軍は、首都防衛の為に全国から義勇軍を集めパリ郊外に創設する事を決定。
様々な手段で伝えられていた軍歌は南部の街モンペリエの部隊がマルセイユに到着した時にも披露され、歌詞が新聞にも掲載マルセイユとモンペリエの義勇兵の歌としてパリまで800kmの行軍の間中歌い続けられ『マルセイユ人の歌』と呼ばれるようになる。

7月29日 パリの入り口シャトラン門に到着した義勇軍は待ち構えていた市民の前で『マルセイユ人の歌』を披露し熱狂の渦に包まれた。
8月10日 国王の廃位問題に端を発したテュイルノー宮の襲撃で歌を歌いながら突撃した義勇軍は王宮奪取に成功、王権は停止され「マルセイユ人の歌」『ラ・マルセイエーズ』は革命の象徴となった。


この歌は敵と戦い人を殺す事を煽る歌である為にフランス国内でも1795年の国歌制定以来、何度も禁止されたり変更の論議もあるがなぜか未だに歌い継がれています。

まともな歌詞の七番を引用して終わります。

~僕たちは道に足を踏み出すだろう。
僕たちの先人がもはや居なくなった時には僕たちは彼らの亡骸と彼らの徳の跡を見つけるだろう。(繰り返し)
彼らより長生きする事よりも
彼らの棺を共にする事に執着し
僕たちは気高い誇りを持つだろう。
彼らの仇を討つか後を追うという誇りを。~
日本では家斉が将軍に就き、
老中松平定信が尊号問題で朝廷と揉めていた頃、
1789年5月5日 フランスでは絶対的な権力者である王の下、
実に約170年振りの三部会が開催された。
世界的に?身分制度全盛の時代、
当時のフランスは、第一身分を聖職者。
第二身分を貴族。
第三身分を平民と分けていて、
身分制議会で課税などを決めていた。

ルイ16世による絶対王政下の当時のフランスは財政破綻していて、特権階級への課税などを含めて王政に対する不満が渦巻いており(今もたいして変わってない?)打開策を見出だしたいが為の開催だったものの議決形式などを巡り紛糾、意を決した平民は6月17日 国民議会を開催、他の身分の者へも参加を呼び掛けた。
これに対し王の弟が議場を閉鎖。
締め出された代表者達は隣接の球技場で
『憲法制定までいかなる状況でも会議を解散せず継続する』
テニスコートの誓いと呼ばれる宣言を採択。
これに対し国王政府側は王妃マリーアントワネットや王の弟が王の頭越しに武力行使を画策する。

多くの聖職者や貴族の国民議会への合流でルイ16世は国民議会を承認。
7月9日 国民議会は憲法制定議会へと改称、本格的な憲法制定作業に取り掛かると、
王妃一派は治安の悪化などを理由に軍隊をベルサイユに召集。
7月11日には2万の兵をパリに集結させ、財政再建を実行しようとして(マリーアントワネットや寵臣に質素倹約を進言するも逆恨みされていた)国民に期待されていた第三身分の財務長官ネッケルを罷免し民衆の怒りに火をつけてしまった。

7月12日に廃兵院に押しかけ武器を要求した民衆は、
14日、遂に廃兵院から3万丁の小銃を奪い王政絶対主義の象徴といわれたバスティーユ牢獄を襲撃した。


これをきっかけにしてフランス革命が始まる訳ですが、
毎週金曜日に官邸前を始め全国へと拡がりを見せ始めたデモ。
一応『反原発』を旗印に掲げて集結していますが、多くの皆さんの胸中には、消費税や生活保護問題、不平等条約の再来とも言われるTPPや『決断する政治』と嘯いて勝手に強行する言いなり政権への不満が渦巻いているものと思われます。
機動隊や無駄に多い警官を配備している権力側は見せしめに逮捕したくて仕方がないでしょうから徹底して非暴力で大きな波を起こさねばなりません。
全国の県庁、市役所前で同時にデモれば百万人も夢じゃない。
祭りと思って気軽に金曜日はデモへ行こう!
1781年 9才で10代将軍家治の養子となった家斉。
1786年に家治が急死した為に、
1787年 15歳で11代目の将軍に就任した。
就任後すぐに田沼意次を罷免し
自分の代わりに11代将軍となっていたかも知れない松平定信を老中首座に据え、
田沼時代とは真逆の「寛政の改革」を推進するが…。

厳しい倹約政策や役人の賄賂人事の禁止など、定信は他の老中達に疎んじまれていた上に、天皇家との尊号問題に端を発した家斉、治済親子との確執(天皇家に尊号を許さなかった為に、家斉が治済に大御所の尊号を贈りたがっても拒否せざるを得なかった)により家斉親子の機嫌を損ねてしまい、家斉は父の治済と協力して、1793年に定信を罷免してしまう。

定信は罷免したものの実務の出来る老中は定信の下で幕政に携わった「寛政の遺老」であり、1817年に定信の後釜として老中首座に座っていた松平信明が死去するまで同じような政策が続いて行く。

信明の死後、他の老中達も老齢などを理由に辞職を申し出て来た為に人心を一新。
1818年 側用人の水野忠成を老中首座に任命、忠成は贈収賄を公認し自ら奨励。
家斉の生活も忠信時代の反動からかどんどん華奢になり幕府財政は破綻、幕政は腐敗を極め物価も高騰していく一方であったようです。

それから更に約20年に渡り我が儘な将軍様は君臨し続け、
1837年 やっと次男の家慶に将軍職を譲るものの、69歳で死去する1841年まで大御所として実権を握り続けたようですから、ある意味幕末の動乱の立役者の1人かもしれません。


今朝、当然のように早くもポンコツと揶揄されているオスプレイが米軍岩国基地に搬入され、2014年までに24機もの不良品を日本が買い取ってアメリカの軍事産業を支えるようです。
いつものように、言い値で買うのですから莫大な費用を税金で支払い駐留する軍人やその家族まで日本人の税金で養っている訳ですから泣けてきます。
そりゃ社会保障費なんて足りなくなりますわ…。

更に悪い事に、何と2030年には現在よりも労働者人口が950万人も減少するとか報道されています。
裏を返せば、年金なんて破綻していますよ!と公表したようなもので、消費税を何が何でも税収増のカードとして使いたい財務省がマスコミを使って世論誘導を行っているのでしょう。

本格的な夏が来ました。
暑さにマケズ
トップの横暴ニモ負けない強い精神で
頑張っていきましょう!