1793年 南フランスの港湾都市トゥーロンで起こった王党派の反乱を鎮めるべく的確かつ大胆な作戦で勝利を呼び込んだ当時24歳のナポレオン・ボナパルト。
一躍、諸外国にも名を知られるようになり軍人としても短期間で准将に昇進、フランスを代表する若き英雄に奉られた。
1795年のパリでの王党派の反乱を鎮圧して将軍となったナポレオンは、
1796年 総裁政府の総裁となったポール・バラスにイタリア方面軍の司令官に任命され(オーストリアをドイツ側とイタリア側から攻める作戦)連戦連勝を重ね、
1797年4月 オーストリアの首都ウィーンに迫り
10月には講和条約を結び(実際は休戦条約)莫大な戦利品とイタリア北部の領土を獲得、第一次対仏同盟を事実上崩壊させ多くの衛星国を建設、
12月 熱狂的な声援を受ける英雄としてパリに帰還した。

陸のオーストリアと違い強力な海軍を有し制海権を持つイギリスに対しては攻めあぐねていたフランス軍。
ナポレオンは、イギリスの最も重要な植民地インドとの交易を絶つ事を主眼として、その中継地である当時オスマン帝国の支配下にあったエジプトを攻めるべく総裁政府へ進言、遠征が決まった。

1798年7月3日 海からエジプトに上陸したフランス軍は地中海岸の最重要都市アレクサンドリアを占領、首府のカイロに最短距離で行くべく砂漠の真ん中を行軍、
21日 待ち構えていた騎馬戦士マムルークを打ち破り(華美な衣装で猛スピードで突進して来るマムルークを、銃剣を装備した近代的なフランス軍が全滅させた)カイロへ入城してエジプトを制圧したかに見えたが…。
その直後、ナイルの海戦でフランス艦隊がイギリス艦隊に大敗。
ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。

1779年 ナポレオンの居ない本土のフランス軍はオーストリア軍にイタリアを奪還され、本国も危機に陥る。
ここでナポレオンはエジプトに軍を残し側近のみを連れてフランスへ帰国、またしても熱狂的な歓迎を受け、
11月 プリュメールのクーデターで新政府を樹立、独裁政権を獲得する。


身分制度の厳しい古代エジプトで先祖が造らされたであろうピラミッドを見ながら壊滅したマムルーク(奴隷として使われ軍事訓練で戦士になる)。
有力者の私的な軍事力として利用されている様は、良心よりも公務を優先させ命を軽んじている公僕と我々の関係のようです。予算って元々税金なんですけど何を勝手に無駄遣いしてんだか…
真夏の風物詩 ひまわり。
キク科の植物と聞くと、
なるほど菊を巨大にしたような感じでもあり…。
同じキク科の紫陽花は雨のイメージですが、向日葵は真夏の太陽のイメージです。

向日葵とは中国語で、日に向かって咲く花(植物)という意味のようで、
英語では、文字通り Sun flower(太陽の花)
16世紀に原産国の北アメリカからイギリスに伝わった時に、花の形が太陽のようである事から名付けられたようです。

因みに学名は Helianthos(ヒマワリ屬)annus(一年生の)で、Healianthos(ヘリアンサス)は、ギリシャ語のHelios(太陽)+anthos(花)が語源だそうです。

実際、太陽の光を浴びる事で成長を促進し、より大きな種を実らせる事ができるので太陽の方向を向くようで、成長期の頃だけの特徴だとか。
朝は東を向いて太陽を迎え、夕方には西を向いて1日のお礼をするなんて自惚れがちな人間も見習うべきかもしれません。


8月17日の誕生花で、
花言葉は『私の目はあなただけを見つめる』
あんな大きな目で見つめられたら目のやり場に困ってしまいますが
現実問題として、あらゆる場所に監視カメラがありますから常に見張られているんですけどね。

オリンピックが始まったようですが、
アツい夏は一瞬で終わります。
戦いも花火も祭りも然り…。
アドレナリンが出た後は、一気にテンションが下がり、フヌケ状態になりがちです。どなた様も夏バテ(精神も!)などなさらぬよう、ほどほどにしときましょう。

自分の勝負処を間違えちゃいけませんぜ!
では、よい週末を!
(^o^)/
フランス革命の余波はヨーロッパ各国のみならず、鎖国中のはずの日本にも及んでいた。
1792年 8月10日の王宮襲撃で国王一家を捕らえ王権を停止、革命戦争へと邁進し始めた軍は
9月20日 プロイセンの一時撤退により初勝利に沸き勢いづく。
その後、11月オーストリア軍に勝利、南ネーデルラント全域を占領した。
しかし、義勇兵もいつまでも戦争ばかりしているわけにもいかず満期を理由に帰郷、軍も満足な給与が払われず綻びも目立ち始める。
そして運命の1793年1月21日 国王ルイ16世を革命広場で公開処刑(奇しくも王自身が刃の角度を決めたギロチンで)してしまうのだった。
これにより革命には同情的であったイギリスをも敵に回し対仏同盟を作られ
2月1日 イギリス、オランダに対して宣戦布告をしオランダに侵攻するものの敗退。更に国内でもマルセイユやリヨンで反乱政権が誕生するなど最大のピンチを招いてしまう事になった。

8月23日 打開策として国家総動員法を発令、120万人の兵を集め軍を再編、
9月にはイギリス軍、10月にはオーストリア軍を破り、国内の反乱も鎮圧と完全に息を吹き返した。
ところが巨大化し過ぎた兵力が今度は物資不足に陥ってしまった軍は、物資補給を敵国領土に求め、侵略戦争へと変わっていった。

1794年6月のオーストリア軍との戦いに勝利したフランス軍は、南ネーデルラントとドイツ西部のラインラントの大部分を制圧。
翌95年の初頭、オランダの要塞の防御が河川の結氷で弱まる冬季を衝いて大軍を率いて攻撃、次々と都市が陥落し総督ウィレム5世は逃亡しオランダ艦隊を接収した。
これによりバダウィア共和国が成立し一部の都市はフランス領となりオランダが消滅した。

1609年に平戸に設置され、
1641年に出島に移されていたオランダ商館は、存在しない国の商館となり、
1797年 オランダ東インド会社と傭船契約を結んだアメリカの商船が入港するようになり、幕府は1809年までアメリカ商船と貿易を行っていた。


権力というのは不都合な真実を
『国民の為(=あなたの為だから)に』
隠すものです。
そしてほとぼりが冷めた頃に、
小出しに情報を開示、これに広報役のマスコミを使います。
ペンは剣より強しなどと意気がっているマスコミの実態は金と脅しに従順なイヌなのです。
今頃、実は東京も汚染されていました。
なんてお約束のように公表されても…。