1832年 13名の乗組員を乗せて鳥羽港を出港した宝順丸は、一路江戸へ向かった。
ところが、遠州沖で暴風に遭遇し難破、太平洋を漂流する。
14ヶ月後、陸地に漂着したのは音吉、岩吉、久吉の3名のみであった。
そこは、アメリカ西海岸、オリンピック半島と呼ばれる地域の岬であったが、運悪く?アメリカインディアンに救助された。
助けられた後は、インディアンに酷使され、挙げ句にイギリス船に売り飛ばされてしまった3人であったが、そのイギリス船で運命が激変した。
日本人らしいと気づいたイギリス船の会社は何と費用まで出してマカオまで送り届け、ドイツ人宣教師へと預けてくれた。
3人は、ドイツ人宣教師ギュツラフと協力して初の邦訳聖書『ギュツラフ訳聖書』を完成。
1837年3月には、薩摩の漂流民4人とマカオで対面。
6月 合計7人の漂流民を乗せたイギリス船はマカオを出発、那覇でアメリカ船モリソン号に移乗し本土へと向かった。

7月30日 三浦半島 城ヶ島付近を航行していたモリソン号を待っていたのは浦賀奉行と薩摩藩の砲撃であった。
当時、頻繁に来航しては無許可上陸や暴行事件などまで引き起こす外国船に神経質になっていた幕府は非武装の商船であるモリソン号に対し砲撃してしまい追い返す事になった。
結局、祖国の土すら踏めずアメリカへ渡った後に上海へ行き、アヘン戦争にイギリス兵として参加。
イギリス企業に勤め、イギリス人女性と結婚。
1849年にイギリス軍艦マリナー号で浦賀へ、1854年9月にはイギリス軍極東司令官スターリングの日英交渉には通訳として同行、長崎奉行からの帰国の誘いも断り、イギリス人として上海へ帰った。

その後、太平天国の乱による混乱でシンガポールへ移住。
1867年 明治になる前にシンガポールで死去した。

死の間際、遺言で息子に
『日本へ行って欲しい』
と頼み、その息子さんは横浜で日本人女性と結婚して山本音吉と名乗ったそうです。
それから100年あまり後、どこで調べたか、音吉の出身地であり愛知県美浜町(知多半島南部)の町長が、シンガポールへ渡り音吉の遺骨を美浜町へ持ち帰って、173年振りの帰国を果たしたらしいですが、パフォーマンスというか自己満足というか…。
死後何百年と経っても著名人の名前で商売をする人たちが世界中に多く何だか複雑な気分ですが…。


彼に限らず、このヘタレな外交に歯痒い思いをしている人が多く居る事でしょうね。
1808年のフェートン号事件など、外国船(特にイギリス船)の密航に肝を冷やした幕府(家斉50年独裁体制)は、
1825年 異国船打払令を発布して外国船の追い払い策を打ち出した。


鎖国のご時世という事で、国内の各藩は外国との貿易は禁じられていた。
しかし、財政難に喘ぐ諸藩は無能な幕府に頼る事なくこっそりと密貿易で物資を補充していた。

現在の島根県の石見浜田藩。
回船問屋の御用商人である会津屋右衛門は困窮を極める藩に密貿易を提案。
藩は、地の利を活かして竹島(現在の竹島ではなく鬱陵島)で李氏朝鮮と密貿易。
更には東南アジアまで足を伸ばしてジャワやジャカルタでも貿易を行い巨額の利益を得て財政を再建したかに見えた。

ところが、探検家として有名な幕府の隠密、間宮林蔵が商人に変装(変装の名人であった)し浜田藩に潜入。
家老始め年寄も関与している事を突き止め、藩主で老中の松平康任も黙認しているらしい事を確認、その後九州へ渡った後の帰りに大坂町奉行に報告して事件が発覚した。
1836年6月 家老岡田の家臣、藩勘定方の橋本と会津屋が捕縛。
12月 処分が決定。
岡田と年寄の松井は切腹、橋本と会津屋は斬罪、藩主の松平康任は永久蟄居を命じられた。

そんなご時世でも、諸藩は抜け荷と呼ばれる密貿易を止めなかった。
特にロシアに近い松前藩、朝鮮に近い対馬藩、中国に近い薩摩藩などはむしろ積極的に密貿易を行い財政赤字を補填していたようです。
飢饉や幕府の放漫政策、年貢をむしり取る事しかノウのない役人に対する不満は日本中に蔓延、一揆や打ちこわし等も頻発し始めた中で金になる貿易(犯罪とまでは言い難いような気もするのですが)に活路を求めたのは自然な行為ではなかったのでしょうか?

皮肉にも、300年近く前に密貿易で藩の財政を立て直していた舞台は、現在領土問題を抱えている所ばかりです。
これが何を意味するか?
地理的に双方にとってメリットがある場所ですから百歩、否、百万歩くらい譲って、「貿易の島」として自由に取り引きの出来る中立な国として独立するというのもひとつの手だと思うのですが…。

利益ある所にハイエナが群がるのは、古今東西、万国共通のようで…。
冗談ではなく、終いにゃ戦争になりますぜ。( ̄○ ̄;)
1814年2月26日 エルバ島を脱出したナポレオンはフランスへ上陸。
パリへと進軍する彼の下には7000の兵が集まり入城、迎撃しようとした国王ルイ18世は臣下に寝返られ逃亡。
3月20日 ナポレオンは再び皇帝となった。
「やられる前にやれ!」
とばかりに、早速12万の兵を率いると連合軍撃破にベルギーへと向かった。
6月16日 プロイセン軍に勝利し、3万の兵が追撃に向かい、ナポレオン軍は7万余りの兵で首都ブリュッセルへと向かう。
翌日ワーテルロー付近で接近を知り、早朝の攻撃を予定するが夜の雨により昼過ぎまで延期、結果的にこれがプロイセン軍の到着を待つ事になり敗北へと繋がる。

一進一退の攻防が続き、やや優勢に押していた段階で一気に決着をつけようと最後の切り札の「近衛兵」を投入するが、逆にイギリス近衛部隊に撃退され、士気が低下、一気に敗走し始め、疲労をおして攻め込んで来たプロイセン軍も追撃しナポレオン軍は完全崩壊した。
6月22日 人生最後の賭けで決定的な敗北を喫したナポレオンは再び退位。
なぜかイギリスに亡命しようと保護を求めるものの一蹴され、アフリカ西部から2800kmも離れた世界で二番目に陸地に遠い島セントヘレナ島へと流刑の身となり、
1821年5月5日 島で波乱の人生の幕を閉じた。


実際の戦場はベルギーのラ・ベル・アリアンス。戦局をひっくり返したプロイセン軍のドイツでは「ラ・ベル・アリアンスの戦い」と呼ばれているが、世界的に5kmほど離れたワーテルロー(英語読みではウォータールー)の戦いと呼ばれている。
戦地には、人工の小高い丘が作られ、ナポレオン軍の大砲を溶かして作った記念碑
「ワーテルローのライオン」像がフランスを向いて鎮座している。

この勝利を後世の人々の脳裏に焼き付けたかったのか?英語で waterloo(ウォータールー)と言うと、「完膚なきまでに破れた惨敗」の喩えだそうです。

結果的に負けはしたものの、根っからの軍人ナポレオンにとって、エルバ島で終わる事なく最後の戦いに打って出られた事は、ある意味幸せな事ではなかったろうか?

他人の庭に勝手に入って、あるいは不法占拠されても何もできずにやりたい放題、言いたい放題の領土問題を見るにつけ、
一度ガツンと叩きのめしてやりたい!
などと不届きな事を考える週末。
今年最後の夏を悔いなく過ごしてきださいませ!(^O^)/~~