1824年に家慶の四男として生まれ、
兄たちの早逝により
13代目として将軍の地位に就かざるを得なくなった家定。
病弱で、脳性麻痺とも言われたが
1853年 ペリーの来航の後に、父家慶が死去。
かつてない国難の真っ只中で将軍職を引き継ぎ、病状は更に悪化。
猜疑心が強く、人前に出る事さえも嫌いな当人を苦しめる事となった。
1854年 日本の危機にテンションが上がり大急ぎで再航して来たペリーは思惑通りに日米和親条約を締結。
幕政も混乱に陥り、家定ばかりか、老中首座の阿部正弘の体調まで悪化。
1857年8月に家定より先に急死してしまう。
家定の最初の妻となったのは、公家の鷹司家の娘、任子(あつこ)。
5歳で家定と婚約、18歳で婚姻を結ぶものの子供に恵まれず
1848年に26歳の若さで死去。
翌年、二番目の妻 一条家の娘で24歳の秀子を迎え入れるも、わずか1年余りで死去してしまうと言う(陰謀じみた)不運に襲われる。
その後、1856年11月、薩摩藩 島津斉彬の養女(島津分家の娘)から家定との婚姻の為に五摂家の近衛家養女となっていた通称篤姫と結婚するものの、やはり?嫡子には恵まれる事はなかった。
1857年8月 全幅の信頼を置いていた老中の阿部正弘が死去。
正弘の後を継いでいた首座の堀田正睦が幕政を主導する事となるが、
12月には砲艦で乗り込むと脅すアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが江戸城で家定と遂に接見。
与しやすしと見たのか、後に日米修好通商条約と言う、まるで植民地扱いの条約を結ぶ事となる。
こんな情勢でも、幕府は権力闘争に夢中で(今と同じ?)、家定の後継に、井伊直弼らが推薦する紀伊藩主、徳川慶福(後の家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭が推す斉昭の息子、一橋慶喜との後継候補争いが激化。
結局、1858年8月に、家定自らが?慶福に後継を決め、
8月13日に一橋派諸大名の処分を発表。
翌日、35歳の若さでこの世を去った。
(妻の実家とも言える島津斉彬を処分したり、処分後にタイミング良く?死んでしまうなど、ここにも陰謀の臭いがしますが…)
この時の幕府と、今の政府がダブって見えてしまうのは私だけでしょうか?
国難に際しても、権力の座にしがみついて離れようとしない党と、ただ権力が欲しいだけの党…。
こうして、不平等条約(TPP)を結ばれて何十年も苦しむ事になるのでしょうか?
こんな人たちには将来を委ねていられませんわ!
兄たちの早逝により
13代目として将軍の地位に就かざるを得なくなった家定。
病弱で、脳性麻痺とも言われたが
1853年 ペリーの来航の後に、父家慶が死去。
かつてない国難の真っ只中で将軍職を引き継ぎ、病状は更に悪化。
猜疑心が強く、人前に出る事さえも嫌いな当人を苦しめる事となった。
1854年 日本の危機にテンションが上がり大急ぎで再航して来たペリーは思惑通りに日米和親条約を締結。
幕政も混乱に陥り、家定ばかりか、老中首座の阿部正弘の体調まで悪化。
1857年8月に家定より先に急死してしまう。
家定の最初の妻となったのは、公家の鷹司家の娘、任子(あつこ)。
5歳で家定と婚約、18歳で婚姻を結ぶものの子供に恵まれず
1848年に26歳の若さで死去。
翌年、二番目の妻 一条家の娘で24歳の秀子を迎え入れるも、わずか1年余りで死去してしまうと言う(陰謀じみた)不運に襲われる。
その後、1856年11月、薩摩藩 島津斉彬の養女(島津分家の娘)から家定との婚姻の為に五摂家の近衛家養女となっていた通称篤姫と結婚するものの、やはり?嫡子には恵まれる事はなかった。
1857年8月 全幅の信頼を置いていた老中の阿部正弘が死去。
正弘の後を継いでいた首座の堀田正睦が幕政を主導する事となるが、
12月には砲艦で乗り込むと脅すアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスが江戸城で家定と遂に接見。
与しやすしと見たのか、後に日米修好通商条約と言う、まるで植民地扱いの条約を結ぶ事となる。
こんな情勢でも、幕府は権力闘争に夢中で(今と同じ?)、家定の後継に、井伊直弼らが推薦する紀伊藩主、徳川慶福(後の家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭が推す斉昭の息子、一橋慶喜との後継候補争いが激化。
結局、1858年8月に、家定自らが?慶福に後継を決め、
8月13日に一橋派諸大名の処分を発表。
翌日、35歳の若さでこの世を去った。
(妻の実家とも言える島津斉彬を処分したり、処分後にタイミング良く?死んでしまうなど、ここにも陰謀の臭いがしますが…)
この時の幕府と、今の政府がダブって見えてしまうのは私だけでしょうか?
国難に際しても、権力の座にしがみついて離れようとしない党と、ただ権力が欲しいだけの党…。
こうして、不平等条約(TPP)を結ばれて何十年も苦しむ事になるのでしょうか?
こんな人たちには将来を委ねていられませんわ!