江戸幕府の最南端、薩摩藩主として琉球を管理、清のアヘン戦争での敗北から欧米諸国の次なる狙いが日本であると読んでいた島津斉彬。
父 斉興の代で清との密貿易や砂糖の専売で藩の財政は立て直していたものの、その父が溺愛した側室、お由羅の子で斉彬の腹違いの弟に当たる久光を後継にしたがった為にお家騒動に巻き込まれたが、老中阿部正弘の調停で斉興は強制隠居、斉彬は41歳にしてやっと新藩主となった。(自分の子を後継にしたがる政治家も強制隠居させて欲しい)

長年温めていた集成館事業に着手した斉彬。江戸からは辺境の地にありながら中国への近さにより異国の脅威を肌で感じていた為に危機感を募らせ富国強兵政策に乗り出す。(実際、中央政府である幕府は外圧に怯み次々に不平等条約を結んでいます)

大砲や武器弾薬、洋式帆船から紡績、食品に至るまで幅広い殖産政策で薩摩藩を日本屈指の行政区に仕立て上げ、西郷隆盛や大久保利通など後の維新で活躍する人材を下士階級から登用、琉球に漂流して来たジョン万次郎からも造船や操船の技術を学ぶなど維新の礎を築きます。

ところが、阿部が急死。
翌1858年に大老に就任した井伊直弼と将軍継嗣問題で激しく対立。
これに勝った井伊は日米修好通商条約を朝廷の勅許なしに調印した事に対する批判を封じ込める為に強権を発動。
安政の大獄を始めてしまいます。

斉彬は、藩兵5000を率いて上洛しての抗議を計画。
兵士を訓練させますが、
1585年7月8日 観覧中に突然心臓が衰弱、急死してしまいます。
斉彬の嫡子の夭逝と合わせて、仲の悪い父斉興の手先による毒殺と言われていますが…。


斉彬の死を知った西郷は、号泣して後を追って殉死しようとしたそうです。
幕末の四賢侯と並び称された1人である福井藩主の松平慶永は後に、
『大名第一の御方であり、自分は勿論のこと、水戸烈公(斉昭)、山内容堂、鍋島直正公なども及ばない』とまで言っています。
「島津斉彬言行録」より、
『君主は愛憎で人を判断してはならない』『十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない』
『勇断な人は事を為す事を能わず』
『西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も人なり。屈することなく研究に励むべし』

自分を批判する人を『抹殺』すると言うような人や、責任を取らない責任者に聞かせたい言葉ですが、聞く耳なんて持ち合わせていないですからね…。
残念なことに…。
13代将軍 家定の不可解な死など様々な事が起こった1858年。
図らずも、6月4日(安政5年4月23日)、井伊直弼が大老に就任してから激流が始まる。
35歳という遅さで15代目の彦根藩主となった直弼は、藩政改革で頭角を現し幕政においては、1853年のペリーの来航では積極的な開国論を唱え(元々は鎖国論者であったらしいので政治的な意図があったのでしょう)、攘夷派の水戸藩主、徳川斉昭に対抗。1854年の日米和親条約や将軍継嗣問題でも反目し合い、1857年6月に老中首座の阿部正弘の死去で開国派の堀田正睦が実権を握り、自らが推す家茂を14代目とした事で権力の中枢に座る事となる。

1858年 井伊の大老就任後。
6月25日 家定の後継を紀伊藩主の家茂に決定。
7月29日 日米修好通商条約調印(天皇の勅許が取れなかった為に後に混乱を引き起こす)。
8月14日 将軍家定死去。
8月18日 日蘭修好通商条約調印。
8月19日 日露修好通商条約調印。
8月26日 日英修好通商条約調印。
9月14日 戌午の密勅(孝明天皇が水戸藩へ正式な手続きを経ずに出した勅許で幕府の頭越しに将軍の臣下に指示を出した事で幕府を蔑ろにしたとして結果的に安政の大獄の引き金を弾く事になる)
10月9日 日仏修好通商条約調印。
10月11日 批判を封じ込める為に手段を選ばない井伊直弼による安政の大獄の捕縛が始まる。
11月30日 14代目将軍 家茂就任。

俗に言われる『不平等条約』。
この年は五ヶ国でしたが、何も考えないと甘く見られた日本に対して、他の諸外国も圧力をかけて同様の条約を結びます。
1860年 ポルトガル
1861年 プロシア
1864年 スイス
1866年 ベルギー、イタリア、デンマーク
明治になっても続き、
1868年 スペイン、スウェーデン、ノルウェー
1869年 オーストリア、ハンガリー

この一連の条約には、「領事裁判権」により在留外国人が起こした事件を被告人の本国の領事が本国の法律で裁くようになっていましたが、幕府にとっては面倒を引き受けてもらい好都合という事で明治維新以降まで全く気にもしていなかったと言うのが実際のようです。
これを悪用されて現在に至り後を絶たないのが、在日米軍の犯罪。
特に、性犯罪は公表される事も少なく、泣き寝入りも多いかと思われます。
いつまで、こんなバカな事を許すのでしょう?
全てにおいて自立しましょうよ!
南京条約により治外法権などを獲得、アヘンの輸出も事実上公認となり、大国(単に人口が多いだけ?)清から利益を貪ろうとしたイギリスだったが、思ったほどには利益が上がらず(他人の褌を利用する輩は必ず「思ったより(儲けが)少ない」と言いますね)、更には清国内でも反英運動が高まり、「清国内の貿易機構が悪いから利益が上がらない」と責任を転嫁していたイギリス政府は、再び戦争を起こしてでも条約を改正して何とか利益を上げようとしていた。
1856年10月8日 イギリス船籍を名乗る中国船アロー号に対し、清の官憲が臨検を行い清人船員12名を拘束。3名を海賊容疑で(尖閣事件の体当たり漁船みたいに素行が悪かったのでしょう)逮捕すると、広州領事のハリー・パークスが「イギリス船籍(香港)の船に対する臨検は不当だ」と抗議。更に「イギリス国旗を引き摺り下ろした行為は国に対する侮辱だ!」と言いがかりをつけ混乱を引き起こした。(実際には、事件当時のアロー号の船籍登録は期限を過ぎていて臨検も逮捕も合法で、イギリス国旗を掲げる権利もなかったが、清側が調査を怠った為に事実を把握できずに混乱に拍車をかけてつけこまれた。)

これに乗じてイギリス海軍が出動。
議会も何とか(無理矢理)軍隊派遣を承認し、フランスのナポレオン三世と共同戦線を組み広州を占領、交渉決裂後に天津を制圧して天津で条約を結んだ。

この条約により、関税率等が改定され、アヘンの輸入が正式に公認。
イギリス軍とフランス軍に対して軍事費の賠償や治外法権など一方的とも言える不平等条約だったが、その後の日本を始め各国で同様の条約が結ばれる事となる。

郵政民営化を声の大きな『役者』に実行させ、今度は消費税やTPP。
アメリカの狙いは、潤沢な日本の個人貯蓄や保険など、郵貯マネーや社会保障(年金)とも言われています。
実際、アメリカには年金システムなどなく、健康保険もバカ高い為に医療費を払えなかったり、高齢者になっても働かざるを得ない状況のようです。

脅されるとビビってしまい言いなりになるのは、当時の清に限らず、戦後の日本の一貫した姿ではないでしょうか?
戦争をやろうなどとは言いませんが、
『あんまりナメてると、いつでもやってやるぞ!』くらいのブラフも外交においては必要かと思います。

外交でイジメられて金で解決しようと言うようなヘタレに国内の子供達のイジメ問題が解決できる訳ない!
そう思うんですけどね