1858年4月 大老に就任した井伊直弼は、無勅許の条約調印や将軍継嗣問題におけるごり押しでの跡継ぎ決定など、手に入れた権力の維持の為に暴走し始めます。(彦根藩主の14男として捨て扶持を当てがわれると言う全く出世の見込みも期待もされていなかったのが、相次ぐ兄達の死で藩主の座が転がり込んで来たという経緯からか権力に対する異常な執着心があったのかもしれません~燻っていた間に学問には励んだようですが、歪んだ?性格までは直らなかった?~)
そして、直弼の学問の師とも言える長野主膳や老中の間鍋詮勝ら自分と同じ考えの?者を重用し、条約問題と将軍継嗣問題での反対派である『一橋派』を中心に徹底的な弾圧による反対派の封じ込め、『安政の大獄』を開始してしまいます。
最初に網に掛かってしまったのが、元若狭藩士で上方の貿易ブローカーとして活躍していた攘夷派の指導者、梅田雲浜。
藩士時代には、藩に対して「海防策」を提言したり、私塾を開くなど独立心のあった雲浜は、その動向を長野主膳に探られ、9月7日に京都で逮捕。江戸に送られ激しい拷問の末に27日に病死してしまいます。
また、越前藩の秀才橋本左内は藩主の松平慶永の設立した明道館の学館として帰郷。慶永の指示に従って、幕政の不当性と過ちを説くと、長期間に渡る取り調べを受け、奉行所も『流罪』で済まそうとしたものの、直弼により『死罪』にされてしまい、25歳の若さで処刑されてしまいます。
最後の処刑者となった吉田松陰も、奉行所の裁断では『流罪』だったのが、直弼の手で『死罪』に書き換えられてしまっていますから、権力の中枢(決定権を持つ者)が僻み根性と言うか、意地の悪さと言うか、歪んだ人物だと、多くの人間の人生を狂わされてしまいます。
これは、現代にも通じる事で、
マスコミの餌食となり悪役にさせられ人生を狂わされた方々は数知れず。
一方で、過ちであったと分かっても、小さな記事や、おざなりの数秒間の謝罪のみで、次の瞬間には、もう無かった事のように簡単に復活してしまうメディア。
大げさに戦いを挑んで来るタレント首長には白旗を揚げて迎合し、一切弁解をしない小沢氏は執拗に追い回す。(無罪判決が出ても偏った報道で攻め続けるでしょうね)
誤報や、誤逮捕が相次いでいます。
マスコミだけでなく警察や検察さえも信用できなくなってしまっていますから、いろんな意味で「護身」の術を身につける時代のようです。
明日は我が身…
そして、直弼の学問の師とも言える長野主膳や老中の間鍋詮勝ら自分と同じ考えの?者を重用し、条約問題と将軍継嗣問題での反対派である『一橋派』を中心に徹底的な弾圧による反対派の封じ込め、『安政の大獄』を開始してしまいます。
最初に網に掛かってしまったのが、元若狭藩士で上方の貿易ブローカーとして活躍していた攘夷派の指導者、梅田雲浜。
藩士時代には、藩に対して「海防策」を提言したり、私塾を開くなど独立心のあった雲浜は、その動向を長野主膳に探られ、9月7日に京都で逮捕。江戸に送られ激しい拷問の末に27日に病死してしまいます。
また、越前藩の秀才橋本左内は藩主の松平慶永の設立した明道館の学館として帰郷。慶永の指示に従って、幕政の不当性と過ちを説くと、長期間に渡る取り調べを受け、奉行所も『流罪』で済まそうとしたものの、直弼により『死罪』にされてしまい、25歳の若さで処刑されてしまいます。
最後の処刑者となった吉田松陰も、奉行所の裁断では『流罪』だったのが、直弼の手で『死罪』に書き換えられてしまっていますから、権力の中枢(決定権を持つ者)が僻み根性と言うか、意地の悪さと言うか、歪んだ人物だと、多くの人間の人生を狂わされてしまいます。
これは、現代にも通じる事で、
マスコミの餌食となり悪役にさせられ人生を狂わされた方々は数知れず。
一方で、過ちであったと分かっても、小さな記事や、おざなりの数秒間の謝罪のみで、次の瞬間には、もう無かった事のように簡単に復活してしまうメディア。
大げさに戦いを挑んで来るタレント首長には白旗を揚げて迎合し、一切弁解をしない小沢氏は執拗に追い回す。(無罪判決が出ても偏った報道で攻め続けるでしょうね)
誤報や、誤逮捕が相次いでいます。
マスコミだけでなく警察や検察さえも信用できなくなってしまっていますから、いろんな意味で「護身」の術を身につける時代のようです。
明日は我が身…