1952年、今から60年前の同じ壬辰の年の8月。
時の首相 吉田茂は、同じ自由党の鳩山一郎が前年のサンフランシスコ講和条約締結による公職追放からの解除で復帰するに伴い鳩山系の議員から(GHQに国を売ったから?)退陣を迫られ、更には自派内でも派内抗争が勃発、政局は混乱していた。

松野鶴平、池田勇人蔵相、岡崎勝男外相、佐藤栄作郵政相、保利茂官房長官ら側近の議員だけと相談した吉田は、
8月28日に突如、解散を発表した。
自派内では密かに準備を進め(それでも情報漏れを恐れていた為に万端ではなかったのでしょう)、準備不足の鳩山派潰しに『決断』したのである。

10月1日に行われた総選挙。
300以上の議席を有していた自由党は、240に激減するものの過半数(当時の定数は466)は維持、吉田派は199議席を獲得、敵視していた鳩山派は35議席に止まり、どこかの国営放送の国策ドラマのタイトル同様に、『負けて勝つ』結果となった。



奇しくも、同じ壬辰の年である2012年。
都知事を放り投げた老人による
都知事選挙の日程の決定を合図に、忘れられた『近いうちに』の約束を履行したと言う言い訳を携え、解散を『決断』。
と言うより、本人は

『消費税増税を花道に辞めてしまいたかった』(居座れば居座るほど悪役にされるのは歴代の降ろされた首相を見ていれば分かるはずですから)けれども、
周囲の自称側近や、人数合わせ以外ではどうしようもないほど役に立たない一年生議員の、『解散しないでけろ!』の声に、決断出来なかっただけだったのが、
①突然、都知事選挙が決まったものの、目ぼしい候補も居ないし、下手に推薦しても負けてしまう。→そしてまた非難が集まる
②大嫌いな小沢氏が、来月中旬以降に第三次公認候補を発表(目玉候補も居たとか…?)するので、準備が整う前に心中を図った。
③今まで散々無理な要望にも応えて来たにも拘わらず、財務省が、『無能だ!』とか『持たない』などと、梯子を外しにかかった。

これらに逆ギレして、本人曰く
『一撃で仕留める』
解散の公表を衆人監視の国会中継の場で確約したのではないか?
とドシロウトの私は勝手に読みました。


結果がどうなるか分かりませんが、
60年前の悪夢の再現は御免です。
ぜひ、投票に行って、ふざけた税金泥棒に鉄槌を下しましょう!
自民党と民主党以外で選択すれば、少しは希望が持てるかもしれません…。
1840年 ドイツで生まれたサミュエル。
幼少期にアルザス地方に移り住んでいたそうですが、ユダヤ系ということで迫害を避ける為に、11歳の時にアメリカ、ミシシッピに移住。
1860年 南北戦争に南軍の一員として参戦。
84年にアラバマ州バーミンガムで、なぜか金物屋を開業。
市の教育委員やユダヤ教の寺院の役員も務め、87年には、バーミンガムナショナル銀行の取締役となります。(銀行と言えばユダヤ?)
93年から1900年まで 教育委員会委員長を務め、
1901年 12番街に開校した小学校が、ウルマン・スクールと名付けられたそうですから人望も厚かったのでしょう。

1920年 80歳の誕生日に出版されたのが、詩集『80年の歳月の頂から』で、
彼の連合国総司令官ダグラス・マッカーサーは、彼の詩の一文を座右の銘として執務室に飾っていたほど敬愛していたと言われています。

1945年12月 アメリカの雑誌『リーダーズダイジェスト』に、詩集の中の“Youth”が掲載されると、アメリカばかりか世界中に広まり、日本の多くの経済人の間でも財布に入れて常に持ち歩くなど高度経済成長のひとつのエネルギー源ともなった、“Youth”から(抜粋)

『青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ。
優れた創造性、逞しき意志、燃ゆる情熱、怯えをはね除ける勇猛な心、安易を振り払う冒険心、こういう様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけで人は老いない。
理想を失う時に初めて老いが来る。

(中略)

人は信念と共に若く、疑惑と共に老いる。自信と共に若く、恐怖と共に老いる。
希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。』


異国の地で、その国の一員として戦争に参加するなど、現在の超合理主義社会に生きる我々からすると、考えられないと言うか、ある意味羨ましいと言うか(現在なら大半が逃げ出すでしょう)。
『アンチエイジング』の精神論みたいで、現在でも色褪せない、心に突き刺さる素晴らしい詩だと思います。
枯葉散る季節、寒さに震える季節。
心の鞭のような言葉が、
ぬるま湯に浸り切って我が儘になりがちな私には(あなたにも?)
とっておきの栄養源のようで…。

私は、アナログに走り書きして、財布の中に入れておく事に致します!
( ̄ー+ ̄)


『秋深し 隣はなにをもう(想う、妄想する)人ぞ』

11月11日の駄作でした。m(_ _)m。
烈公と呼ばれた徳川斉昭。
1800年 7代目藩主治紀の三男として生まれ、8代目の長兄斉脩が虚弱だった為に、スーパーサブとして控え(次兄と弟は早くから養子に出されている)、
1829年 斉脩の死により9代目水戸藩主に就任する。
藩校弘道館を設立するなど、幕府ばかりか全国に影響力を及ぼすほどの藩政改革を実施。
9代目就任時に対立した保守派を押さえ、後々まで支える事となる下士層から広く人材を登用する。

1844年 先を行き過ぎたが為に幕府に疎まれ冤罪?で強制隠居をさせられ、幼い長男慶篤に藩主の座を譲る。
2年後、謹慎処分を解除され藩政に復帰。 1853年のペリー来航に際し、老中首座の阿部正弘の要請で海防参与として幕政にも参加。強硬な攘夷論を主張し続けるが、
1855年の安政の大地震で藤田東湖ら有能なブレーンを亡くし、1857年には阿部までも急逝、開国(売国?)派で将軍継嗣問題でも対立する井伊が大老に就任して完全に流れが変わる。
井伊の独断とも言える条約調印の詰問の為の無駄登城を逆手に取られ再び謹慎処分を受け幕政から追放され、
1859年には、明治天皇の父である孝明天皇による「戊午の密勅」が幕府の頭越しに水戸藩に下された事で井伊が大激怒、『安政の大獄』を引き起こし、斉昭も永久蟄居の身となり水戸藩は徹底的な弾圧を受けて保守派と攘夷派に分裂してしまいます。


1860年8月15日 斉昭は心筋梗塞により60歳で蟄居の身のまま、この世を去ってしまいますが、その5ヶ月前の3月3日、桜田門外で水戸藩の過激な攘夷派の志士により井伊直弼暗殺が決行されています。
『国の為に』と言う大義名分を掲げて諸外国との条約に次々と調印する様は、TPPや『郵政民営化』(郵便局解体)、日米同盟と言う名目の『地位協定』などを思い起こさせてしまいます。
オバマ再選で喜んで会いに行くであろう、野田と言う下請け社長の得意技である『どさくさ紛れの重大発表』(お得意の週末会見など)が怖くて仕様がありません。
まさか、暗殺するわけにもいかないし、どうしたものやら…。

都知事選挙と一緒で良いから解散してくれ~!<_<)o>>