イギリスの諺だそうです。

『1日1個のリンゴが医者を遠ざける』

リンゴの栄養価については、
食物繊維、ビタミンC、ミネラルを豊富に含み、何と言っても、「リンゴポリフェノール」を中心に400種類以上のポリフェノールを含むってところがミソでありやす。
整腸、解熱、消炎作用を有する『万物の妙薬』と言われ、古くは入院している患者さんへのお見舞い品のスタンダードだったとか(縁がないので現状を全く知りません…)

暑さに弱く、育てるのが難しいとされるリンゴ。
ヨーロッパでは、古くからリンゴを題材にした寓話などがありますが、個人的にすぐに思い出したのが、ウィリアム・テルが息子の頭に乗せたリンゴに矢を射るシーンです。
広場に置いたポールに自分の帽子を掛け、お辞儀を強制した役人に逆らい逮捕されたテルが、息子の命を賭けさせられて射抜いたリンゴ。
矢をもう1本用意していたテルは、
『もし失敗していたら、お前を射ち殺すつもりだった』と、役人に言い放ち再び逮捕されてしまいます。

その後、連行中に嵐に紛れて脱出したテルは、追って来た役人を待ち伏せて討ち、これを契機にスイスの民衆がオーストリア支配からの独立運動を起こし独立を勝ち得たそうです(創作上の伝説のようですが…)。
テルが射抜いた矢は、自分の信念の証だったのではないでしょうか?
「何があっても(命懸けで)貫く」覚悟で放ったからこそ、真っ直ぐに標的を射抜けたのではないか?
そう思えてなりません。(架空の話ですけど…)
作者も、それを言いたかったのではなかろうか?
などと考えます。

ともすれば、過剰な安全策で「自分たち」の身の安全だけを守ろうとする我々に(非常時にすぐに買い占めなどをする行動に表れていますね)、本気で命を懸ければ物事は解決すると言いたかったのだと、勝手に解釈しています。



ところで、リンゴと相性が良いと言われるニンジン。
細菌感染の抵抗力を高めたり、発癌を抑制するなど優れた抗酸化作用を持つβカロチンや他のビタミン、ミネラルを豊富に含むのに非常に食べにくいニンジンも、リンゴとミックスしてジューサーにかけるだけで飲みやすい栄養ドリンクに早変わりするのですから、試す価値はあるかもしれません。(どこかの国みたいに心臓麻痺起こすほどのカフェインなどが入っているわけでもないので、体調に合わせて実験のつもりでのお試しをお薦めします)
馬並みの体力になるかもしれませんぜ!?
1837年 江戸小石川の水戸藩邸で、9代目藩主斉昭の7男として生まれた七郎麻呂。
2代目藩主光圀の教育方針を踏襲していた斉昭は、子女を華美な江戸の風俗に馴染ませぬように国許の水戸で教育をさせていた為に、七郎麻呂も生後7ヶ月で水戸へと移った。

水戸学の代表的な儒者である会沢正志斎らから、学問、武術を教授されていた七郎麻呂の英邁さは、幼少の頃から注目され、斉昭は、長男慶篤(後の10代目藩主)の控えとして、養子には出さず手許に置いておこうと考えていた。

1847年 8月
12代将軍 家慶は、水戸藩の聡明な七郎麻呂に、御三家 一橋家の世嗣の座を提案。
12月1日 一橋家を相続した七郎麻呂は、家慶の偏緯を賜り、慶喜と改名した。

家慶は、度々一橋邸を訪問、慶喜を我が子同然に可愛がり、将軍後継にも考えていたようだが…。
病弱とは言え、実の子の家定を差し置く訳にもいかず、老中阿部正弘の諫言も受けて断念したようです。


運命の皮肉は、その家定の継嗣問題の際にも慶喜を舞台へと上がらせ、父の斉昭、阿部正弘、島津斉彬らに担がれて候補に上がるものの、阿部、島津が謎の?急死で一橋派の勢いは衰え、家茂が将軍となってしまいます。
この時、慶喜本人は、斉昭に
『天下を取ってから失敗するよりは、取らない方が良い』
と言う内容の手紙を送っているそうです。あまり乗り気ではないというか、矢面に立たされる事を嫌っていたのかもしれません。
事実、その後、
1866年7月に家茂が死去すると、
朝廷へ諮り、休戦(第二次長州征伐の真っ最中だった)の詔勅を引き出し、周囲の反対を押し退け、強引に休戦協定を結び、
家茂の後継に推されても固辞。
8月20日に徳川宗家のみ相続し、
将軍職は12月5日まで就任を拒み続けています。
しかも、その将軍職ですら、
翌67年に、薩長の連合軍の武力による倒幕が聞こえてくると、
10月14日 明治天皇に政権を上奏。
翌日勅許され、大政奉還が成立します。


2012年 暮れも近づく、この忙しい時期に
突然解散し、第三極とやらの準備が整わないうちに選挙をやってしまおう!
という魂胆がミエミエの財務省政権(手下は民主党、自民党、公明党)。
片や、80歳の老人を盾にして、逆風を全部老人のせいにしてしまおう?と言う偽維新の若き看板。

皆さま、他にも政党はあるんですよ!
財務省の広報と化したマスコミの報道なんて気にせず直感でも良いんです!
1846年 紀州藩主徳川斉順の次男(兄は流産)として産まれた慶福。
父が11代将軍家斉の七男で、12代将軍家慶(家斉の次男)の弟であると言う『血統書』を利用した井伊直弼らの政争に利され、1858年 13歳で14代目の将軍に奉られてしまいます。

1849年に4歳で紀州藩主の座を嗣いだ時から、幼少故の『後見役』に実権を握られ続け、周囲に翻弄されて来た皮肉な巡り合わせは将軍となってからも続き、就任後は田安慶頼(こちらも傀儡で、実質的に井伊が闇将軍として権力を握っていたようです)、1862年に井伊派の排除により一橋慶喜が後見職に就いて『進言』、右に左にブレまくります。

1862年2月 時の天皇、孝明の妹和宮と政略結婚(公武合体の一環)をしますが、夫婦仲に関しては歴代将軍随一と言われたほどの良好さであったようです。(単に側室に溺れる暇がなかっただけとも言えますが…)
翌63年 将軍としては229年振り(1634年 将軍家光が冷え込んだ朝幕関係改善の為に上洛して以来)に上洛。
義兄、孝明天皇に攘夷を誓うが…。

1865年 兵庫開港を決定した老中 阿部正外(白河藩主)らが、朝廷による処罰を受けた事に反発。自らも将軍職の辞意を上申、これに慌てた天皇が辞意を取り下げさせ、以後幕府の人事に干渉しない事を約束した。

翌年、第二次長州征伐の最中、大坂城で病に伏せた家茂は、7月20日、21(満20)歳と言う若さでこの世を去ってしまいます。
死の間際に次期将軍に指名した田安家の3男(従弟にも当たる)家達は、当時4歳であった為に、後見役であった慶喜が15代目の将軍に就く事となる。(因みに家達は、維新後の1868年、第16代目徳川家当主となる)


大の甘党で羊羹に最中、金平糖からカステラに至るまで甘い物に目がなく、残存していた31本中30本が虫歯になっていたほど酷い状態であったようで、更には義兄の孝明天皇が悪化した家茂の病を治そうと医師団を派遣、漢方医は脚気、西洋医はリウマチを主張、互いに譲らず診察も治療も混乱を極めて逆効果となったようです。



TPP参加で懸念の1つに挙げられているモンサントの遺伝子食品。
利益を上げる為に大量生産をしたいが為に害虫を殺す為、更なる強力な殺虫剤を使用。
安価な値段で市場に回り、人体の免疫力をも弱め奇病や突然死の増加につながっています。
指導者も人間です。
誤った判断にはNO!を突きつけましょう!