1858年7月 時の大老井伊の強引な後継将軍(家茂)の決定や安政の大獄に対する抗議の為に、5000の兵を率いて上洛を計画するも、決行寸前に謎の急死を遂げてしまった島津斉彬。
皮肉にも、斉彬自身も1847年に御家騒動に巻き込まれ、弟忠教(後の久光)との藩主継嗣問題を経験していた。
斉彬の死後、遺言により藩主の座に就いたのは忠教の長男で18歳の忠徳(継嗣問題で争ったものの兄弟仲は悪くなかった)。
斉彬の父斉興が存命であった為に、就任当初から後見役を務め(会社もそうですが、世襲の弊害ですね)、斉興の死後は久光が事実上、藩を仕切ると言ういわばお飾り藩主だったが、実の父でもあり茂久(家茂に謁見後改名)自身もあまり権力欲の強い人物ではなかったようです。
1862年3月 公武合体運動推進の名目で1000の兵を率い鹿児島を出発。
4月16日に京都入りし、さっそく朝廷への意見書を公家の近衛忠久らに提出。
公家側からは藩内の過激派の鎮撫を要求される。
23日 薩摩藩の定宿であった伏見の寺田屋に集結していた過激派の有馬新七らを襲撃し粛清、非情な態度で朝廷の信頼を得、
5月9日 孝明天皇の勅命として、久光の意見が大幅に取り入れられた勅書を携えて大原重徳の江戸派遣が決定。
6月7日 久光は藩兵と共に大原に随行。遂に亡き兄斉彬の果たせなかった兵を率いての江戸入りを果たす。
幕府との交渉で、
若年将軍家茂の補佐役将軍後見職に一橋家の当主慶喜、
政事総裁職に前越前藩主松平慶永、
京都での尊皇攘夷過激派取り締まりの京都守護職に公武合体派の仲間でもある会津藩主松平容保を任命させるなどの人事改革もさることながら、
250年の悪夢『参勤交代』を隔年から3年に1度に改め、大名の江戸在留期間も100日に短縮。
そして、人質として江戸の藩邸に残っていた大名の妻子の帰国の許可を勝ち取ると言う徳川幕府の根本制度の改革を外様大名の父である(藩主でもないので官位なし)久光の圧力で成し遂げてしまい国内外に大きな反響を及ぼす。
1862年10月25日 ロシア領事ゴシケーヴィチからロシア外務省アジア局へ出されたという報告書。
『日本では、この一週間に革命が行われた。静かにデモ1つなく国の基本構造が変わったのだ。
……
……。』
今なら、官僚国家、隷属国家として堕落したこの国の基本構造を変える事が出来るかもしれません!
『誰の為に税金払っているんですか?』
皮肉にも、斉彬自身も1847年に御家騒動に巻き込まれ、弟忠教(後の久光)との藩主継嗣問題を経験していた。
斉彬の死後、遺言により藩主の座に就いたのは忠教の長男で18歳の忠徳(継嗣問題で争ったものの兄弟仲は悪くなかった)。
斉彬の父斉興が存命であった為に、就任当初から後見役を務め(会社もそうですが、世襲の弊害ですね)、斉興の死後は久光が事実上、藩を仕切ると言ういわばお飾り藩主だったが、実の父でもあり茂久(家茂に謁見後改名)自身もあまり権力欲の強い人物ではなかったようです。
1862年3月 公武合体運動推進の名目で1000の兵を率い鹿児島を出発。
4月16日に京都入りし、さっそく朝廷への意見書を公家の近衛忠久らに提出。
公家側からは藩内の過激派の鎮撫を要求される。
23日 薩摩藩の定宿であった伏見の寺田屋に集結していた過激派の有馬新七らを襲撃し粛清、非情な態度で朝廷の信頼を得、
5月9日 孝明天皇の勅命として、久光の意見が大幅に取り入れられた勅書を携えて大原重徳の江戸派遣が決定。
6月7日 久光は藩兵と共に大原に随行。遂に亡き兄斉彬の果たせなかった兵を率いての江戸入りを果たす。
幕府との交渉で、
若年将軍家茂の補佐役将軍後見職に一橋家の当主慶喜、
政事総裁職に前越前藩主松平慶永、
京都での尊皇攘夷過激派取り締まりの京都守護職に公武合体派の仲間でもある会津藩主松平容保を任命させるなどの人事改革もさることながら、
250年の悪夢『参勤交代』を隔年から3年に1度に改め、大名の江戸在留期間も100日に短縮。
そして、人質として江戸の藩邸に残っていた大名の妻子の帰国の許可を勝ち取ると言う徳川幕府の根本制度の改革を外様大名の父である(藩主でもないので官位なし)久光の圧力で成し遂げてしまい国内外に大きな反響を及ぼす。
1862年10月25日 ロシア領事ゴシケーヴィチからロシア外務省アジア局へ出されたという報告書。
『日本では、この一週間に革命が行われた。静かにデモ1つなく国の基本構造が変わったのだ。
……
……。』
今なら、官僚国家、隷属国家として堕落したこの国の基本構造を変える事が出来るかもしれません!
『誰の為に税金払っているんですか?』