1863年(文久3年)
京都に集結していた尊皇攘夷派の志士には、「天誅」と称して反対派に対し暗殺や脅迫を繰り返す過激派が多くなり、
朝廷の主導権も、急進派の公家、三条実美や姉小路公知らが掌握、将軍家茂に攘夷の決行日を5月10日と約束させるに至っていた。
5月10日当日、長州藩は下関海峡に停泊中のアメリカ商船を砲撃、攘夷を実行に移す。
ところが、他藩は全く動かず、欧米艦隊からの報復攻撃にも傍観者を決め込み、6月には家茂も江戸へ帰ってしまう。
攘夷派の窮状に、朝廷に影響力を持つ久留米藩士の真木和泉ら尊攘派の志士らが国論を攘夷に向ける為に天皇によよる攘夷の親征を画策する。
攘夷主義の孝明天皇ではあったが、急進派の横暴な行動に強い不快を感じていて、
会津、薩摩を中心とした公武合体派の尊攘派一掃のクーデター作戦に乗り、
8月17日 公武合体派の御輿として担がれる中川宮朝彦親王に対しクーデターの密命を下す。
8月18日 午前1時 中川宮と松平容保(会津藩主で京都守護職)らが、京都御所堺町御門(長州藩の警備門)に参内。
午前4時頃までに、会津、薩摩、淀藩兵により御所九門への警備の配置が完了。
在京の諸藩主に参内を命じ、三条ら急進派の公家には禁足と面会禁止を命じ、
8時過ぎからは兵を率いた諸藩主が続々と参内し九門を制圧した。
この時、異変に気づいた長州藩兵は門前に集まったものの、薩摩藩兵に阻まれ門内に入れず隣接していた公家の鷹司邸の裏門から鷹司邸に参集、
クーデターの成功により、失脚した七人の公家と共に京を追われ、
翌19日 長州へと帰還する。
この政変により、急進的な攘夷運動は退潮。
この後、長州藩は池田屋事件、禁門の変と憎き会津、薩摩と戦火を交えることとなる。
戦後、飴玉をしゃぶらされ、骨抜きにされた敗戦国ニッポン。
米軍様は、高級な生活保護で養い、使えない武器も言い値で買い取り、自国民からは「天引き制度」と「上乗せ価格」で搾り取る非情さ。
マスコミと言う媒体をふんだんなく使い、『洗脳』を繰り返すサマは、ほとんど宗教の域に達しているかのようで、
これをひっくり返して変えるのは、並大抵ではないようです。
世論調査と言う名目の印象操作に嫌気が差して、選挙を棄権した有権者数は実に約40000万人と言う情けなさ。
『絶望(無気力)が可能性の芽を摘む』
と言うのに…。
達磨に倣って七転び八起きするしかないのかもね…。
京都に集結していた尊皇攘夷派の志士には、「天誅」と称して反対派に対し暗殺や脅迫を繰り返す過激派が多くなり、
朝廷の主導権も、急進派の公家、三条実美や姉小路公知らが掌握、将軍家茂に攘夷の決行日を5月10日と約束させるに至っていた。
5月10日当日、長州藩は下関海峡に停泊中のアメリカ商船を砲撃、攘夷を実行に移す。
ところが、他藩は全く動かず、欧米艦隊からの報復攻撃にも傍観者を決め込み、6月には家茂も江戸へ帰ってしまう。
攘夷派の窮状に、朝廷に影響力を持つ久留米藩士の真木和泉ら尊攘派の志士らが国論を攘夷に向ける為に天皇によよる攘夷の親征を画策する。
攘夷主義の孝明天皇ではあったが、急進派の横暴な行動に強い不快を感じていて、
会津、薩摩を中心とした公武合体派の尊攘派一掃のクーデター作戦に乗り、
8月17日 公武合体派の御輿として担がれる中川宮朝彦親王に対しクーデターの密命を下す。
8月18日 午前1時 中川宮と松平容保(会津藩主で京都守護職)らが、京都御所堺町御門(長州藩の警備門)に参内。
午前4時頃までに、会津、薩摩、淀藩兵により御所九門への警備の配置が完了。
在京の諸藩主に参内を命じ、三条ら急進派の公家には禁足と面会禁止を命じ、
8時過ぎからは兵を率いた諸藩主が続々と参内し九門を制圧した。
この時、異変に気づいた長州藩兵は門前に集まったものの、薩摩藩兵に阻まれ門内に入れず隣接していた公家の鷹司邸の裏門から鷹司邸に参集、
クーデターの成功により、失脚した七人の公家と共に京を追われ、
翌19日 長州へと帰還する。
この政変により、急進的な攘夷運動は退潮。
この後、長州藩は池田屋事件、禁門の変と憎き会津、薩摩と戦火を交えることとなる。
戦後、飴玉をしゃぶらされ、骨抜きにされた敗戦国ニッポン。
米軍様は、高級な生活保護で養い、使えない武器も言い値で買い取り、自国民からは「天引き制度」と「上乗せ価格」で搾り取る非情さ。
マスコミと言う媒体をふんだんなく使い、『洗脳』を繰り返すサマは、ほとんど宗教の域に達しているかのようで、
これをひっくり返して変えるのは、並大抵ではないようです。
世論調査と言う名目の印象操作に嫌気が差して、選挙を棄権した有権者数は実に約40000万人と言う情けなさ。
『絶望(無気力)が可能性の芽を摘む』
と言うのに…。
達磨に倣って七転び八起きするしかないのかもね…。