「藤沢の我が家」を撤収するにあたり、すでに断捨離済みの蔵書(というほどないが)を、さらに取捨選択。

 

 

…したくせに、どうしても「もう一度読みたい」本があったので、ネット上の古本屋さんで購入。
 

 
筒井康隆『馬は土曜に蒼ざめる』
 
「あ!そういえば昔、もろに競馬を扱った筒井作品があったな!」と思い出しまして。
 

 
文庫版の第1刷は1978年。
ワタシが読んだのも文庫本のはずで、中学3年〜高校2年位の間だと思う。
 
当時の筒井康隆といえば『時をかける少女』が有名。
SF作家であり、少年少女向けの作品を書く人?と思いきや。
 
SFはSFなんだけど、エロかったり、グロかったり、ドタバタだったり。
 
少年少女向けのときとペンネームを変えたほうがいいんじゃないのん?と、当時のワタシは思ったものだよ。
 
今読み返すと、やっぱりエロ・グロ・ドタバタなんだけど。
なんとはなしに、「品」があると感じる。
文体のせいかしら…内容は決して上品ではないのに、薄汚さがまるでない、というか。
こういうところに現れるのが「育ちの良さ」とか「品格」なのかねぇ。
 
 
この本は短編集。
表題作のほかも、はっきり記憶に残っている作品ばかりで、とても懐かしい。
 
表題作は、交通事故で「脳だけ」が生き残った競馬ファンの主人公が、愛馬に「脳だけ」臓器移植され、中央競馬のレースに出走するドタバタ劇。
 
競馬の「け」の字も知らないお子様だったころに読んでも面白かったが、今読むと、「競馬」の時代的な変遷が感じられるのも面白い。
単純なところでは、馬齢のカウント方式が、当時と今では違う。
したがって、馬の年齢に言及している箇所は、すべて、1歳分ズレているわけね。
 
「競馬」に対する社会的な認識も、今とはかなり違ったみたいね。
 
 
「脳移植」は現在でも「架空の世界のもの」だけど。
臓器移植はかなり「ふつーのこと」になってしまった(?)から。
本作のように「些かふざけた感じ」で取り扱うのは、現時点では「些かびみょー」な気がする。
 
いろいろと「時代」を感じたわけです。
 
なお、この小説の「オチ」は、相棒と組んで「馬」としてさんざん荒稼ぎしたあと、今度は作者本人と思われる作家の肉体に「脳移植」され、「人間の男」として蘇る、というもの。
 

 
それにしても、若い頃の筒井康隆はかっこいいな。
お年を召してからも渋くてステキで、ときどきひょっこり映画やドラマに脇役として出てきてびっくりするんだが。
 
 
1年前に、帯広ばんえい競馬がきっかけで競馬にハマった。

 

 

それからふつーの(?)中央競馬(JRA)も嗜むようになり。

 

今年に入ってから、ギャンブル熱の急性化・劇症化が進んでしまった滝汗

 

土日に馬券を買うのが待ち遠しくてしかたなく。

頭の中は、馬のことでいっぱい。

 

「わりと、地元」である東京・中山だけでなく、東北や西日本で開催されている中央競馬の馬券も買っては、中継や配信映像を見つめるようになってしまったのだよ…。

 

ところが、割りと短期間で軽快(?)して。

 

現在は慢性期に移行、というか「ほどよく楽しむ大人の娯楽」を文字通りに実行している(自画自賛)。

 

この間の「気持ちの変化」については、あれこれ自己分析中なのだけど。

 

 

症状の軽い慢性状態(?)に移行したひとつのきっかけは、「楽天競馬」のように思う。

 

基本、週末だけの中央競馬に、平日や夜間にも開催されている地方競馬を加えると、ほとんど毎日「競馬三昧」の生活ができる!

 

 

現在はさらに、楽天で競輪の車券も買えるようにしてしまったのだが滝汗

 

「いつでもできる」というのが、ギャンブル等依存症の方にはまずいようだが。

 

ワタシの場合は、「いつでもできるんだから、ヒマなときとか、眠れないときにやろう」という「健全な方向」に向かったようだ。

 

寝る前にちょこっと、寝酒とか、オードリー若林さん言うところの「自分磨き」の代わりチュー じゃないけどさ。

 

※さすがに具体的に書くのははばかられるので、気になる方は「オードリー若林 自分磨き」で検索してみてラブラブ

 

「明日の運試し」みたいな感じで、地方競馬のナイターや競輪のミッドナイトを2レースくらい、ちょこっとやって、おやすみなさいzzz

 

…という日もあったりするのよ。