前回の続き。
妹と墓地を歩いていて、今年の春に亡くなった従弟に話が及びました。
「いろいろ、一生懸命にやってたよね」と妹。
「なんかさあ、ありがとうって言われたいのかなあ、って気がしたよ」と(性格の悪い)ワタシ。
今年3月の前半に、従弟は叔母を伴って、母とワタシを訪ねてきた。
そのときに、一緒に墓参りに来たのだ。
ちょっと恥ずかしい事情があって、従弟はワタシの父に恩がある。
父は、身内から頼られたり、ちょっと世話を焼いたりするのが好きだったようだ。
ワタシがまったく父を頼らなかったから、寂しかったのだろうか。
妹の子どもたちの世話を、喜んでしていたようだし。
※まあ、それが悪影響を及ぼしたと、今はうっすら恨まれてもいるようだがね。
従弟や、従姉の子どもたちに、あれこれ恩を売っていたようだ。
従弟と同様に、父も「ありがとうって言われたかったのかなあ」と時々思う。
心身の状態が悪くなって、現実離れしたことばかり言うようになった父は、「おれを長生きさせたほうが得だぞ」「おれが死んだら、お母さんはこの家に住めなくなるんだぞ」とよく口にした。
自分が死んだら、世界は終わる、みたいなことも、よく言っていた。
それは、ある意味、正しいんだけどね。
あんたが死んだら、「あんたの世界」は終わるんだから。
でも、「あんた以外の世界」は、続くのだ。
父も従弟も、「おれがいなくなったら、みんなものすごく困るはず」くらいに考えていたかもしれない。
確かに、亡くなった直後は混乱して、いろいろと大変だった。
どっちも、ちゃんと「準備」しておいてくれなかったからさ。
しかし、「世界」は急速に回復して。
時折、思い出すけれど、さほどの問題なく回っている。
「だから、安心してね」と言いたいけれど。
それが、彼らの望んだ「遺族のことば」だろうか。
「あなたがいなくなって、寂しくて仕方ない」「あれこれ困っている」と、縋ってほしかっただろうか。
「頼られること」を自分の存在意義にしてはいけないと思うんだな。
「自分の世界」の主人公は、自分なのだから。