お彼岸なので、妹と一緒に、父の墓参りに行きました。
といっても、↑このように「〇〇家の墓」があるわけではない。
市営墓地の「合葬納骨壇」というくくり。
墓を守る者がいない人向けで、お値段格安。
…なのだが、今はもう「満室」で新規受付は締め切っているらしい。
昨年、父が亡くなった直後に、母の分も「生前予約」しておいて本当に良かったのだわ〜。
これで、他人との相部屋(?)ではあるけれど、両親同じ場所。
ワタシの実家は、「1年に数回、お墓参りに行く」という習慣がなかった。
父方は、物理的に遠方だったので、家族揃って行くと費用がかかる、という「口実」があった。
母方は、ムリなく「1年に数回」足を運べる距離感だが、「ある人」の存在が問題で。
その人が生きているうちは、ワタシたちは「お葬式」のときだけ、母方の実家がある土地へ行った。
その人は、「公の場」には出てこないので。
その人は、天寿を全うする前に事故で亡くなった。
それ以降、ワタシは母と、何度か墓参りをした。
母の「気が済む」ように。
正直、「母方の実家」には、なんの愛着もない。
墓参りも、本当に「義理」であって、「心」はいささかもこもっていない。
だって、心のなかに、母方の誰も、住んでいないのだから。
昨年、父が亡くなったあと、母の希望を「忖度」して、ミニ仏壇を買うことを提案した。
ノープランだった母は、大賛成。
「位牌」は将来始末に困るし、戒名もつけなかったので、正直要らないだろう、とワタシは考えていたのだが。
楽天さまのサイトを見ていた母が、「あら、これかわいい。欲しい」と言い出した
確かにかわいい、手元供養位牌。
でも、そこそこ高いのだ
それなりに戒名をつけたとかいうのならアレだが…
まあ仕方ない。母の希望だ。
手配して、購入した。
大雨の中、墓参りを済ませた。
合葬納骨壇は立体墓地の中にあり、近くの駐車場に停めたから(妹の車ね)ほとんど濡れなかったのはよかった。
車に戻って、カラオケ屋に予約の電話を入れて、「二次会」へ出発進行。
「あの仏壇、先々どうするの?」と妹。「よかったら、私が引き取ろうか?」
子どもたちもおじいちゃん・おばあちゃんには世話になったし。
手を合わせる場があるほうが、いいと思う。
あら、それなら助かるわ。
札幌へ持っていくのはまっぴらゴメン。
お母さんが施設へ入るのなら持って行くつもりだったけど。
その後は、「燃えないゴミ」にするつもりだったわ。
「え?それはちょっと」と妹。
「え?そう?ワタシはぜんぜん気にしないけど。やっぱり気になる?」とワタシ。
「それは、気になるよ そんな風に捨てちゃダメでしょ」
「あらそう?単なるモノなのに。じゃあ遺影と、あのかわいい位牌も持ってってくれる?」
「もちろん!」
「じゃあ、お父さんの分だけじゃあれだから、お母さんのも似たようなのを買うか」
「あ、それがいいかも。ていうか、お母さんまだまだ生きてるんだけど」
「あ、そっか。じゃあ死んでからね。急がなくていいや」
…というわけで、ワタシがうっすら気にしていた「ミニ仏壇」「遺影」「かわいい位牌」問題は、あっさり解決。
なるほど、「子持ち」は強い
それにしても、妹がそんなことを言い出すとは、本当に意外。
両親との関係があまりよろしくなく。
にもかかわらず子育てを手伝わせた。
にもかかわらず父の介護はノータッチ。
「うちの娘を、墓守娘にしないでね」と言われていたから、仏壇も押し付けられたくないのかと思い込んでた。
「こういうのがなかったら、どこへ向かって手を合わせたらいいのかわからない」とも。
ワタシとは真逆。
ワタシは、心の中にその人が住んでいて、いつでもどこでも偲ぶことができれば、それでいいと考えている。
墓や位牌は、単なる「形式」
どんなに大切にしても、「心」がこもっていなければ意味がないと思っている。
「人」とは、生きているうちに、存分に関わっておくことのほうが、ずっと大事。
生きているうちは知らんぷりで、死んでから墓や位牌に手を合わせたって、意味ないじゃん。
…と考えている。
カラオケ屋は、当てにしていた「無料の駐車場がある田舎っぽい店」は満員。
2軒めの当ては、誰も電話に出ない。
駅前の「ちょっと前までの、ワタシの行きつけ」にかけたら、「部屋の指定はできないけど、空いている」というので、予約を入れた。
駅前なので、コインパーキング料金がかかる。
代わりに、カラオケ代はワタシ持ちにした。
3時間、楽しく歌って お開き。
「あれ?今日って何しに来たんだっけ?」
いいじゃないの。
楽しければ。