早熟であるとはどういうことだろう。早熟だったことのほとんどない私は考える。人が三十才にならないとやれないことを、十五才でやってしまう。たった半分で。彼はまだ生きてもいない十五年をさっさと手に入れてしまう。前借りだ。
十五年後にその十五年を返済していれば、彼は晴れてどこにでもいる三十才になることができる。さらに前借りを重ねる才覚があれば、まるで五十才のような三十才になれるかもしれない。
しかし人生は有限だ。永遠に前借りを続けるわけにいかないばかりか、先取りされる一年の価値はしだいに目減りする。八十才がまるで百才のようだったとして、それはどういうことなのか。はたしてそれは価値か。
十五才の彼が、どのみち三十になればやれただけのことをたまたま早めに披露したのか。三十になってはじめてやれるかどうか検討し始めていいくらいすごいことを、十五の身でやりおおせたかの区別は「十五才がそれをやった」という事実のスキャンダル性に曇らされ、正確に見届けられることはまずない。
だから早熟だった者はあきらめて、早熟であることに耐えるしかない。それはひたすら耐えるべきものだ。浮かれていい理由などまるでないことははっきりしているのだから。