作品と無意味 | 喜劇 眼の前旅館

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短歌のブログ

短歌の周囲では、作品というものがこの世に姿を見せてしまう理由が、易々と言葉にされ過ぎているような印象があります。
もちろん言葉にできる理由をいっさい抜きにして作品がつくられることなどないのですが、作品はそれら事前に語られた(語り得た)理由が間違いであったことをみずから証明することでようやく本当の意味で作品になるのだと思うのです。
書かれたものをそばから空白に返していくような「作品」の奇妙な生態を問題にすることなしには、かりに「短歌」と「歌人」については作法通り語ることができても、「作品」と「作者」について我々の言葉でじかに語ったり、「作品」と「作者」については語れないことに気づいたりすることなど、誰にもできないのではないでしょうか。

作品、とくに文学作品というのは意味であると同時に無意味であるようなものです。つまり意味の終りでありつつ無意味の始まり(あるいはそれぞれの逆)であるようなものです。
短歌の場合、無意味さが定型として目に見えるかたちで条件づけられており、そのためか逆に無意味さの側面からは語りづらいというか、条件づけられた無意味にいかに意味を引き込むことで一首の中心を明け渡すか、というところに短歌の「作品」性が賭けられている面があるので、我々は短歌を無意味さの側から語ることをためらうのかもしれません。
しかし短歌は定型という無意味、あるいは定型という無意識という言い方も成り立つでしょうか、そういうものをつくり手も読み手もあからさまに目の前にしつつ作品と接しなければならないジャンルです。あからさまに無意味がそこにあるがゆえに、つねに「作品」が定型=無意味という母親を同伴せずには生きられないがゆえに、短歌は何よりもまず無意味をこそ抑圧しなければならなかったのでしょうか。