短歌を読むとき、私は大抵それが短歌であることをすでに知っている。短歌とは知らずに短歌を読んでしまうという経験はまずない。
だが読み始めたものが短歌であることを、短歌自身の声にによってふたたび囁かれることは少なからずある。それは短歌が唯物的にみずからを模倣しようとする言葉の運動、その運動が定型とのあいだにたてる軋みに耳をすませるということである。
短歌には“内側に向かってひろがる波紋”とでもいうべき倒錯性がある。
定型という壁に限られたこの空間には、その行き場のなさが内側に向けて裏がえり、いわば短歌が小さな短歌を無数にはらみ続けるような倒錯した磁場が生まれている。
その磁場がつくりだすこの場所に独特の奇景を観賞することが、私が短歌を読むときのおもな目的として意識される。
したがって短歌が、日本語の美しさを表現するものだとはどうしても思えない。
美しさの定義にもよるが、そこに“正しさ”のニュアンスを少しでも含めるならそれはこのジャンルにふさわしい役割ではないだろう。
短歌のリズムは日本語の中にすでにあったものを取り出しているが、逆にいえば我々が書きあるいは話す日本語から多くのものを無視し切り捨てたものが短歌である。
それは日本語にとってあきらかに異常な環境であるが、日本語として読みにいった頭はそれを読もうとするし、あまつさえ読んでしまう。また定型を介することで共有された約束事が、歪み壊れた日本語を読み手の中で回復するという理由によって、その歪みと壊れは短歌の中では許されることになっている。
短歌であることを口実に、読めないはずのものが読めてしまうということ。
頭に入るべきでないものが侵入を許されてしまうということ。
だが短歌をウィルスに喩えることは、ウィルスについての私の無知と、この世にはウィルスに喩えられるものがあまりに多すぎるという理由から避けられねばならない。