以前『アメリカの鱒釣り』を読んだとき、「ブローティガンごときにつよく惹かれて好きな小説だと思ってしまっている自分」にうしろめたさと軽く絶望を感じた。
私は権威主義者なので、自分の意見ではない、自分の外にある、自分が権威を感じる基準によって物事の善悪や○×を分類しているが、ブローティガンの作品にはこの基準からみて許しがたいものが含まれていると感じたのだ。
その後『愛のゆくえ』を読んで、『アメリカの鱒釣り』ほどには惹かれなかったことにちょっとほっとしたものだが、まだ大きな憂鬱の種は残っていた。冒頭部分だけ読んだ『西瓜糖の日々』が『アメリカの鱒釣り』以上に好みの作品のように予感できてしまい、たしかめるのが怖くて読めないまま見ないふりを続けていたからである。
しかし忘れっぽい私はそんな不安のことなどいつのまにか忘れてある日、何となく『西瓜糖の日々』を読んだところ、やっぱりこの本も『アメリカの鱒釣り』ほどいいとは思えなかった。それは『アメリカの鱒釣り』が例外的に私の偏愛を誘うところがある作品であり、ブローティガンのうちにある私好みの部分がとくに集中してあらわれていた(あるいは逆に、苦手な部分が抑えられていた)ということだろうか。少なくとも、ブローティガンという作家に私は括弧つきの態度を維持できるという結論には達したので、臆病な私はひとまずの安心を得た。好きな作品を書く作家ではあるが、好きな作家にはならないとわかったからだ。
そんなことを今さら(『西瓜糖の日々』さえ読んだのはもう何ヶ月も前のことだ)思い出し、あらためて今ほっと胸をなでおろしてみたのは、ちょうど読み始めている村上春樹『1973年のピンボール』にやはり心の中で同じ動作をしていることを気づいたからだ。
村上春樹の本は全然といっていいほど読んだことがないが、にもかかわらず『1973年のピンボール』のページをめくるたびに、こっちにもあっちにも村上春樹節が炸裂していることがひと目でわかる。そしてそれはどれも悪い冗談にしか見えず、でも(私がいうような意味では)冗談ではないらしいと理解することで心に生じる作品との距離が、私を心強くする。
私が村上春樹を好きになることはありえないだろう。そう確信しながら読み進める限り、村上春樹は十分に魅力的で愛すべき作家だと思う。このむせかえるようなナルシシズムを吸い込まずに済む距離さえ保てば、ここには手に入れたいものもたくさんあるし、こんな場所がほしいと思えるような場所でもある。自分だったらこんなものはここに置かないな、などと勝手な想像力を刺激されるのもうれしいことだ。好きになることが絶対にないと確信できた以上、安心して心ゆくまで泥棒に入ることだってできる。
そして村上春樹はブローティガン(との比較は恣意的なものだが)とくらべてずっと図太そうなところもまた頼もしい。ブローティガンの本には、そこへ泥棒に入ることがその作品に惹かれてしまうこととはまったく別方向からのうしろめたさを生じさせるような繊細さが、痛々しく覗いているが、村上春樹に関してはそういうことは絶対に起きなそうだ。
ブローティガンのナルシシズムは笑ったら死んでしまいそうで(実際作家は自殺しているし)ちょっと笑えない。ブローティガンのユーモアはそのナルシシズムをぎりぎりで守るためにしているいたましい自嘲のように見える。だが村上春樹のナルシシズムは、この作家を好きにならないかぎり安心して指さして笑ってしまえる露骨で一貫したものだ。笑うことで毒抜きしながら読み進めるのにちょうどいいように、行空きの空白が頻繁にちりばめれてもいるし。
まだ三十ページほどしか読んでいないけれど、私は村上春樹という作家も、その作品も好きになることは永久にないだろうと信じられる。しかし作品の中のある部分にだけはつよく惹きつけられていくことも間違いなく、しかもブローティガンを読むときのように偏愛と嫌悪のあいだの揺れに気持ちが動揺する気づかいもないので、村上春樹の本は、これからうまく読んでみたらいいと思う。良くも悪くも現代のメジャーな文学のひとつの見本だろう。