泉涌寺雲龍院(京都)
雷神

雷で怖い思いをしたこと、ある?

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今日は【雷記念日】です。午前中、出かける前に仲間から「今日は雷記念日だそうです」と聞き、その直後に車のエンジンをかけましたら、カーナビから「今日は雷記念日です!」とのメッセージが・・・思わず笑ってしまいました。

インドの落雷による死者が100人近くというニュースで【風神雷神】をご紹介しましたが、どうも最近、風神雷神が気になっていたのです。25日に静岡県磐田市の織物工場で落雷が原因とみられる火災が起きています。

落雷

ここで「雷記念日の由来」についてご紹介しましょう。

清涼殿落雷事件(Wikipedia)より

平安時代の延長8年6月26日(ユリウス暦930年7月24日)に、内裏の清涼殿に落雷した事件。

この年、平安京周辺は干害に見舞われており、6月26日に雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において太政官の会議が開かれることとなった。ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ、それから凡そ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃した。

この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となった。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されたが、希世も程なく死亡した。

『北野天神縁起絵巻』に描かれた清涼殿落雷事件
雷記念日

落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を、同じく紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も2名死亡した。清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難した。だが、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなる。

天皇の居所に落雷したということも衝撃的であったが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まった。また、道真の怨霊が雷神となり雷を操った、道真の怨霊が配下の雷神を使い落雷事件を起こした、などの伝説が流布する契機にもなった。(転載終了)

この落雷事件を契機にして、菅原道真は雷の神「天神」と同一視されるようになったということです。菅原道真公は左遷先の大宰府でかなり厳しい生活を余儀なくされたようで、そこで亡くなっています。(参考) 菅原道真(Wikipedia)

梅紋

天満宮、天満神社、菅原神社などは道真公を祭神としており、太宰府天満宮、北野天満宮、防府天満宮、大阪天満宮は特に有名ですね。そして、梅を愛していた道真公なので、神紋は梅を象徴とした梅紋です。4月の初めに「梅・桜・桃・橘・百合・蓮」の花弁を調べましたが、ここで梅が登場してきましたね~。

(過去記事) 
【千と千尋の神隠し】から始まった時空の旅(2)
【千と千尋の神隠し】から始まった時空の旅(3)