テレビ『俺たちの旅』見ていて思い出したことを今日は綴っていきたいと思います
昭和52年のいつ頃だったか、夕方再放送していました。
当時大阪で中学2年生でした。
具合の悪かった祖母を田舎(今の実家)から呼び寄せ、住まいのマンションの一室で両親が世話していました。
3LDKの賃貸マンションで、狭かったです。
といっても主に母が面倒見ていました。
私は祖母のいる部屋にはほとんど入ることがなかったです。
まだ介護という言葉もあまり聞くこともなく大人用紙おむつがやっと普及し始めた頃。その大人用紙おむつをよく買いに近所のダイエーへ行きました

家に祖母がいても私はわれ関せず・・。
そのうち何度か祖父も田舎から出てきて何か月か同居もしました。
どうだったかな・・祖母が入院してからだったかな??
祖母が入院してからは母がほとんど毎日病院まで自転車で夕方行っていました。
そんな生活がどのくらい続いたのか憶えていませんが翌年1月に祖母が亡くなりました。
亡くなるまですごくバタバタ落ち着かない日々が続いたのを今、思い出しました。
同じ市内に住むいとこの家からバスと電車を乗り継いで学校へ行ったこともありました。
こうして思い出すと昭和52年て中身が濃かったですねぇ

そんなこともありながら、私自身、横浜の元の学校、同級生たちが恋しくてホームシックにかかっていました

中学1年の中頃から日記を付けていた私はその、1年の時の日記を読み返したり、当時の友達からくる手紙を何度も読んだり・・・・・・・そのせいでしょうか、当時のことをよく憶えているのは・・・。
家の外のことばかり書いて家の中のことは全く書いていませんでした

昭和53年度は高校受験が控えていながらダラダラ過ごしていた気がします。
ちょうど高校受験が迫った頃に大阪住吉区の三菱銀行人質事件が起こりました。
その何日か後の受験日。筆記試験と面接があり・・その面接官の先生が犯人と顔がよく似ていました

その先生は体育の先生だったのですが・・3年間私の中では『梅川』と呼んでいました
そうそう、中3になると高校受験の模擬試験がほぼ毎週日曜日にありました。確か、五木書房という会社の主催だったのかな?
会場は毎回大阪経済大学のキャンパスでした。
テストの点数がしばらくすると自宅へ送られてきますが、郵便ポストを見るのはいつも私だったので、まぁまぁの点数の時だけ親に見せていましたww
そんなこんなで・・大阪に住み始めた中学2年3年の頃のことを思い出してみました。
あ!!毎週土曜日学校から帰ると吉本!!でしたw
木村進、間寛平など、あと『モーレツしごき教室』・・おもしろかったなぁ・・
