これから時々、私が聞いてきた、亡き母方の祖父の体験談を、此方に書いてゆこうと思います。

 

最初に言いますと、祖父は日本のとある郵船会社の社員で、欧州航路の貨客船乗り、最終的には事務長まで行きました。

 

私は、他人様に祖父の話をするなと、母に言われたことがあります。

理由は「自慢みたいに聞こえるから」だそうな。

 

でも私からしてみたら、これほど理不尽な話はありません。

祖父の職業や、就職していた会社が、他の職業より優れている、話せば必ず聞いた人の妬みを買う…という発想がない限り、自慢に聞こえるから、よそで喋るな、という言葉は出て来ません。

それこそ職業差別もいい所じゃないですか。

 

 いるかいないか解らない「妬む人」に、私は一生怯え、口開くごとにご配慮しながら生きてかなきゃならないですか…😑

…いや、実際いるとは思うよ、妬む人も。女性に生まれたというだけで、男性に対して傷つき、怒りに震えて涙止まらない方々もいるんだから。

だとしたら、結婚した人はしていない方々に配慮し「つまらなくも結婚などしてしまいました」と卑下して生き、子供のいる人は子供のいない人に対し配慮して我が子を隠し、健康な人は障害ある人に対し配慮して、健康な体を恥じて生きねばならなくなりますが。

 

自慢に聞こえるから、自分の祖父から聞いた話を、よそで絶対にするな、なんて言われる位だったら、

私は、貨客船乗りの祖父じゃなくて、私が昔就いてたのと同じ保育士(某就活誌の底辺職業ランキング一位にされてて炎上した職業)の祖父が欲しかったですよ。

もし祖父が、保育士や清掃業者だったら、私は堂々と、自分の祖父の話が出来たんですかね?😑

  

…あ、これねこれ。就活誌の底辺の仕事ランキング。

理不尽だけど、ま、一般人は実際、内心そう思ってるでしょ。

最低辺の保育士だったからこそ、よく知ってますし、最底辺職と思われようと平気だし、庇ってくれなくていいから、最低限生きてける人並みの給料下さい(Twitterで親しくして頂いた清掃業の方も、同じこと言ってました)。炎上させたのは外野ばっかで、最底辺職と位置付けされた我々自身は、正直、何とも思っちゃいなかったです🥱💤

で、これに照らし合わせたら、確かに私の祖父の職業は、カースト上位の職業に入るでしょう、ハイハイ…真顔

つか、これを差別と思える知能をお持ちの方々には、都道府県魅力度ランキングも同じく、毎年人を傷つけてる「差別」なんじゃないか、ってことにも、いい加減思い至ってほしいのですが。↓

 

 祖父が華族の人は、国会議員や財閥トップだった人は、祖父の話を少しでもすれば自慢と言われるから、生涯、話題にご配慮して生きなくてはならないのか?

上には上がいるはず。私の祖父は下級武士の家系からの、由緒あるノンポリ一般庶民でございます。

 

子供に恵まれず、育児の話で他人様の会話に加われないってだけだって、充分過ぎるくらい苦痛なのに、じいちゃんの話も、私だけ禁忌って。

…いや、ちょっと待って下さいよ、だったら、そもそも口のある私を、産まないでほしかったよ、母さん。

一体、どうしろと。🐚真顔

 

何の悪いこともしてないのに、一生黙らされる私への「配慮」は、何処の誰がしてくれんだよ?

私にも誰か、配慮とやらをしてくれよ。一回も配慮とやら、して貰った記憶ないから、やり方わかんねーわ。

 

どうして私ばっかり、墓場まで抱えてゆかなきゃならない話題が、生まれながらにして、これほど多いんでしょうかチーン

棺桶に入れる荷がデカ過ぎて、私が入るスペースなさそう。死体になってたって息が詰まって、化けて出そうです。

私にも、心の断捨離くらいさせてくれよおばけくん

 

母は母で、自分の父の話は、自慢になりそうと思うんなら、墓場まで持ってゆけばいいじゃないか。と思います。

娘の私にまで、その忍びの者一族みたいな生き方を、勝手に美徳として押し付けないで頂きたいものでございます。

 

私は、戦前から欧州に出ていた私の祖父の話は、同時代に同じ体験が出来た人が殆どなく、非常に稀少であり、

また、これからの人にとって、必ず役に立つことがあるだろうと思うので、折あらば伝えてゆくつもりです。

 

一方的かつ恐ろしい話、それも半分は小説で作り話ですらある話を、国語の教科書にびっしり載せて、無理矢理学ばせるのとも、訳が違うでしょ。

イヤなら読まない自由を駆使出来ます。

 

・・・

 

祖父は前にも書いたとおり、東京で生まれ育ちました。

 

祖父が入学した、家からほど近いA大学は、ミッションスクール。

…どこだか見当ついちゃいますね。はい、蔦の絡まるチャペルで祈りを捧げちゃう、その学校です。

 

祖父の大学の思い出で、私が聞いて印象に残ってるのは「学食のハヤシライスが美味しかった」ということと「当時はあの大学、煙草や酒をやってて停学になりかけたり、単位を一個落としたりしても、洗礼さえ受ければ、罰を免除されたんだよw」って笑い話。

つまり洗礼を受けてない生徒は、等しく皆、一回分の免罪符を所持していたと。運悪く乳児洗礼を受けてしまってた人は、歯噛みして悔しがったんじゃないかな…ってのは、私の想像です。

ミッションスクールとしては、古くからの名門のはずなので、ええっマジw?って思いましたが…まぁ戦前ですから。

アバウトな時代でしたね、今はどうでしょう。

 

祖父自身は、その手は使わなかったそうです。聖書は西洋や中東の思想を知る為の一般教養として読み、クラシック好きなので讃美歌も持っていましたが、生涯、仏教徒でした。今は真言宗の寺の墓地に、祖母と共に眠っています。

優秀だったかどうかは知りませんが、兎に角、祖父の父親も短期間ながら就いていた、欧州航路の貨客船乗りという狭き門の職業に、祖父は就きたくて仕方なかったらしいので、勉強は熱心にしていたと身内から聞きました(曽祖父が就いてたからコネが効いたって話でもありません。曽祖父は短期間しか働いておらず、祖父の就職期にはとうにその会社を辞めてました)。

貨客船の事務長って、帳簿付けだけが仕事ではなく、お客様からのクレーム等の対処にも当たる、謂わば宿の女将さんのような業務、それも客の多くが外国人ですから、少なくとも航海術に加え、基礎的な語学やテーブルマナー、教養、話術、何が起きてもおかしくない船旅に耐え得る体力&精神力は、ある程度なければ勤まらない仕事でしょうよね(最初から事務長だったわけではなかったとしてもです)。

 

祖父が貨客船乗りを目指したもうひとつの理由は、長兄の彼には、養わなくてはならない弟妹が10人以上いたこと。

高給取りになって、末は30歳以上離れた弟の経済的面倒までみる、という義務を、最年長の祖父は、必然的に課せられていたのです。兄弟中で長兄の祖父一人だけ、大学まで行く金を親に出して貰えたのも、実はその為でした。

見てくれはヨーロッパやアメリカを往き来し、時代の最先端を生で知り尽くし、幾ら自由でハイカラに見えたとしても、祖父自身は、ツバメが雛に餌を運ぶように船と陸を往復して稼ぎ、青春を、弟妹たちの糊口しのぎに捧げ尽くしたようなものだったのでした。

 

何一つ愚痴らない、典型的明治男の祖父でしたが、最晩年になって、たった一度だけ「親父は無責任だったなぁ…(自分が経済的に面倒見切れない子供をゴロゴロ作って、長男の自分に押し付けて)」と、娘である母に溢したそう。

弟妹たちはみんな可愛く、彼らに罪はなくても、自分にだって養わなくてはならない妻子もいるのに、少しは自由も欲しかったのに…と、理不尽に感じることも、そりゃあったでしょうよね。

 

学生時代の祖父は、所謂クラシックオタクで、昼食を抜いて金を貯め、ベートーベンの第九のレコードを買い、摩り切れるまで聴き潰したという話も聞きました。…兎に角、学生時代の祖父は、まだ見ぬ海の向こうの西洋諸国に、恋い焦がれていたらしい。

当然、その当時の日本の考え方としても、西洋は日本より非常に文明の進んだ、教養や人権意識の高い国々である、という認識だったし、特にミッションスクールは、その西洋崇拝の気運が激しいから「西洋人の前に出ても恥ずかしくないように」ということで、あらゆる必要要素を叩き込まれました。

そして祖父は大学を無事卒業、晴れて念願の船乗りになりました。

 

祖父の初航海は1926年、今からざっと100年前です。

私は船酔いが酷く、ボートに数分乗ったりシュノーケリングをしようとしただけで気持ち悪くなって嘔吐してしまい、飛行機に乗る時には離陸に備え酔い止め薬が不可欠という、三半規管がイカれた体質なので「船乗りの孫なのに、どうして私は…えーんイヤな祖父を持ってしまった…ゲロー」と落ち込んでたら「いや、じいちゃんも船酔い酷かったらしいよ。最初の半年くらいは、猛烈な吐き気と闘いながら仕事してたらしい。でも、泣こうが喚こうが船は出向してしまったら数週間、どこにも停泊しないし、ぐったりしてたら仕事にならないから、我慢して何とかこなしてたんだね」と。

 

祖父は、元々は私と同じ船酔い体質で、船酔いしなくなったのは、単に「責任感」と「慣れ」だったんですねびっくりハッ

凄いですよねえ。いや、これは…どうだ、うちのじいちゃん凄えだろ!照れキラキラって自慢したっていいでしょう?いいよねえ?!

もうこれ言って僻む奴は、勝手に僻ましときゃいいよね。

じいちゃんすげえ!私に出来ないことをやってのけるっ!そこにシビれるあこがれるゥ!

 

…で、祖父が初めて降り立ったのは、その頃は西洋諸国の植民地だった中国の港、上海でした。

初めて見る日本以外の国に心浮き立ち、キョロキョロとあちこち見て歩いていた23歳の祖父。

 

ふと見ると、美しい洋館の建ち並ぶ、立派な西洋人街があり、そのゲートに一枚のプレートが。

その内容を読んだ瞬間、祖父はさぁっと顔色を変えました。

 

「犬と中国人立ち入り禁止」。

 

…中国を植民地にした白人たちは、

中国国内の一等地に、現地人である中国人の入れない白人居住区を作り、その門に、この文言のプレートを架けていたのです。

 

…これだけでも、余りに侮辱的かつ、品性下劣な看板だとは思うが、

100歩譲って、白人が、欧米の自分たちの国々の中に、中国人移民が入れない場所を作り、このプレートを架ける、というなら、まだ解る。

 

だがここ上海は、もともと中国人の土地だ。

西洋人は、自分たちが侵略し植民地にした国に、これ程の恥ずべき文言を架けて、それを恥とすら感じないほどの、野蛮人たちだったのか。

 

日本にいる時には、欧米諸国はマナーや教養を知る文明的な国々だと、いつも教えられてきたし、自分も現実を知るまでは、ずっとそう思い込んできたのだが、冗談じゃない。これだったら、日本人の方がよっぽど礼節を知っているではないか。

日本人は、何一つ実態を知らずに、頭の中で「理想の西洋人」像を捏ね上げ、それを目指して欧化政策を進めているが、その実、こんな礼儀知らずで野蛮な国々を見習おうとしているのか。

 

白人たちは、確かにマナーを知ってはいました。

だがそのマナーを守るのは、同じ白人に対してだけでした。

 

自分も日本人であり、中国人と同じ東洋人。有色人種。

白人が非白人である自分に対し、どのような見方をしているのか、これから自分が渡り歩くことになる西洋諸国の実態についても、祖父は考え至り、戦慄したはずです。

 

…唖然とした祖父は、それ以降、白人客への認識を一変しました。

ヨーロッパ諸国やアメリカといった国々の芸術や文明は、変わらず正当に評価し、愛し、西洋式のマナーもキチンと守りはするものの、それ以外に対しては、非常に冷静に、人間そのものを観察するようになった。

 

祖父は…恐らく、当時の多くの日本人より、西洋文明をより多く知っていたが、

盲目的な西洋礼賛・欧米出羽守には陥らなかったし、白人に迎合して卑下したり、日本人や他の有色人種国の人たちを未開人扱いして見下すことも、ありませんでした。

 

祖父の貨客船は、一回の航海で半年近く世界中を巡り、白人客とも有色人種客とも、狭い空間で、長い時を過ごします。

一回か二回は、天候悪化などにより危機を感じる瞬間や、体調の悪くなる瞬間などの、不調の時がある。その時に、彼らの本性が見えてくる。

白人客は、普段は取りすまし、マナーや教養をひけらかしているが、いざという時には、いとも簡単に見せかけの上品ぶった仮面を擲ち、人種差別による自己中心主義の醜い本性を曝け出す。

その時見てきた話を、私も祖父から直接聞いたり、祖父から聞いたという人づてに聞いたりしてきました。

 

長い船旅の最後、祖父の会社の船は必ず記念写真を撮るのですが、白人客は男性も女性も子供も、当たり前のように中央を陣取り、有色人種客は、どれほど権威ある偉い人であっても、後ろや両脇の隅に追いやられる。当然、有色人種に対しては、お得意のレディ・ファーストも適応外。

日本の船なのに、白人客には、自分たちは有色人種客とは違うのだから、優遇されて当たり前…という認識が、すっかり出来上がっていた模様です。

 

…ま、ある意味、無理もありません。

お里の欧米諸国に帰れば、有色人種は「奴隷」だったんですもんね、当時の西洋人にしてみたら。

有色人種全般、つまり黄色人種の日本人を含めてです。

 

忘れられがちなんですが、日本は「差別される側の国」です。

 黄禍論も排日移民法(アメリカ 1924年公布)も、この時代、既に健在でした。

 

また、新聞やラジオ(船で新聞は当時無理だから)を通じ、その日の世界のニュースを毎日必ず全て把握してから、お客様に対応している祖父には、一目で「この(有色人種の)お客様は、大変な権威の方(例えば学者や医師など)だ」と解る方が乗船していても、白人客には、それらがすぐ解るほど、新聞やニュースを読んでいる人が少なかったようで、その権威ある方々に対し、相手が有色人種だというだけで、平気で横柄かつ、差別的な態度を取っていた…と言います。

 

…総じて言えば、白人客に、そこまで高い教養があった訳ではなかったということ。

考えてみたら、識字率、完全に日本の方が上でしたしね…当時も今も。

ロンドンでもニューヨークでもパリでも、母国語である英語やフランス語がちゃんと読み書き出来る人たちでさえ、実はほんの一握りしかいなかったわけです。

それにしても、大型貨客船に乗って海外に行く程度には、社会的地位の高かった立場の方々でさえ、新聞を毎朝読んで、時勢を正確に把握していたわけではなかった…というのは、正直、驚きです。

 

ロンドン、リバプール、リスボン、ニューヨーク、ボストン、サンフランシスコ…パリ、マルセイユ、アテネ、ジェノバ、ハンブルグ、コペンハーゲン、ストックホルム、オスロ、タリン、メルボルン、バンクーバー、シドニー…

西洋の植民地であった、コルカタ、カイロ、上海…

貨客船乗りの祖父が降り立ったのは、全て港湾の大都会。つまりその国々の玄関口であり、その国々の中で最もグローバルかつ先進的で、世界に向けて開けた、名立たる大都市。

そこでさえ、そんな風だった…というのですから、ましてや祖父が足を踏み入れていない、内陸の人権感覚や教養、推して測るべし。

 

兎に角、白人は日本人より賢く教養がある、白人は日本人より文明的であり、マナーを知っている…という「日本人脳」で考えていると、貨客船の中という隔離的な社会で、数週間から数ヶ月を密着して過ごすことで、じわじわとあらわになって来る、その現実とのギャップが、凄まじかったよう。

白人客のあまりのマナーの悪さ、教養の無さに、祖父が、歯痒くいたたまれない思いをする場面も、何度となくあったようです。

 

記念写真撮影の時、クルーの制服を着ている祖父は、有色人種であっても、比較的中央寄りに立たされます。

…しっかり映る位置にクルーがいないと、後から写真を見返した時に、船旅って感じがしないからですね。

 

そこで祖父はいつも、カメラのシャッターの切られる直前、ダッシュで一番端へと走ってゆき、有色人種のお客様が一番隅っこにされ、後々まで写真を見て惨めな思いをされるのを、防いだそうです(昔のカメラは、シャッターが下りて写真がフィルムに焼き付けられるまでに、間がありました)。

 

それが、日本人客船事務長として祖父が出来る、その時代の猛烈な白人至上主義・人種差別への、せめてもの精一杯の抵抗でした。

・・・

 

1919年、祖父がまだ14歳の少年だった頃…

 

第一次世界大戦の勝利により、有色人種国としては異例の五大国(アメリカ・イギリス・フランス・日本・イタリア)のひとつとなった日本は、国際連盟(今の国際連合の前身)のパリ議会で、実はこういう提案をしていました。

「人種、宗教の怨恨が、あらゆる戦争の原因になっています。全ての人種差別は撤廃されるべきである(牧野伸顕)」

 

世界初となる、世界会議の場での

人種差別撤廃提案(Racial Equality Proposal)です

 

賛成する国、反対する国…議会は揺れ、多数決を採ったところ、反対国が5、賛成国が11。日本の意見は優勢でした。

 

しかし議長国であるアメリカ、属州であるオーストラリアやカナダ、特に白豪主義の国オーストラリアの大反対を押しきれなかったイギリスは、この提案を通してはならないと躍起となり、

遂に「多数決で全ての国の賛成を得られなかったのだから、却下」という前例のない措置を取り、この日本からの提案を、強引に退けてしまいました。

これらの国は、先住民や黒人奴隷を人間扱いしていなかったし、するなど、考えすら及ばなかったのです。

・・・

 

…2021年、5月。

国連に「世界で住みやすい都市ナンバーワン」に位置付けられた街、メルボルンを有するカナダの先住民寄宿学校跡から、なんと、215人分もの先住民族の子供たちの遺骨が見つかりました。

調査を進めてゆくと、翌月6月には早くも、名を削られた無名の墓751基が、そこに加算。

同化政策下のカナダにおいて、親から無理やり引き離され、カトリック教会の寄宿学校に収容されていた先住民族の子供たちの主な死因は、劣悪な衛生環境、身体的&性的虐待(レイプ)等であろうとのこと。

…えっと、正直私、このニュース、全く驚きませんでした。

寧ろ「やっぱり。だと思ってたよ。これからもポロッポロ、埃が出て来る国だろう」と思いました。

祖父の話を聞いてたもので、カナダを、文明先進国かもしれないとは思ったことがあっても、人権的に日本より優れた国だろうと想像したことは、一度も無かったので。

 

国連の「最も住みやすい」には「白人にとって」という枕詞が付くんです。…昔も今も。

・・・

 

絶望した日本は、白人中心で機能不全の国連から、次第に足を遠退かせてゆき、

このことが後々、第二次世界大戦での惨劇に繋がり…

 

祖父たち客船乗りも、戦時中には御用船乗りとして、丸腰で激戦区の海に投げ込まれ、米艦の雷撃にもろ、晒されることに。

 

… 祖父の話は、また気が向いた時、不定期に記事にしてゆこうと思ってます。

・・・・・

 

「パガニーニの主題による狂詩曲 第18変奏」ラフマニノフ

 

祖父が最も愛した作曲家は、ラフマニノフでした。

晩年、CDというものが出来て、病床の祖父に、大好きなラフマニノフの交響曲を母が聞かせた時、祖父は非常にクリアなその音質に驚き、…なんて美しい音だろう。客船乗りとして航海していた時代、ヨーロッパの有名な劇場で、ラフマニノフを聴いたのを思い出す。僕は今、心の中で、その劇場の客席に座って、演奏を聴いていたよ…と、嬉しそうに語っていたそうです。

 

また、モーツァルトの才能を妬んでいた作曲家、アントニオ・サリエリの生涯に、祖父がとても興味を持っていたので、私が「あっ、そのサリエリとモーツァルトの話、今、有名な映画になっているんだよ!びっくりキラキラ」と言い、祖父と一緒に「アマデウス」のビデオを観た記憶もあります。 

 

 

 

祖父の最晩年に、CDやビデオテープというものが存在したことに、感謝です。