イラスト加工できるアプリで、一番初歩的なイラスト化をしてみました。

 
自分が物心ついた時には「おじいちゃんはおじいちゃん」だったから、気付かなかったが
大人になってから…あれっ?うちのおじいちゃんって、実はその時代から考えても、今見ても、
かなりのイケメンだったのでは?と気づいた。
 
 ※イラスト加工でブワッとしてますが、着ているのは当時の日本郵船のクルーの制服です。
白いから夏服かな。黒い制服もあったはず。
 
 

1905年(明治38年)生まれ。

生家は東京都港区青山、北杜夫の「楡家の人びと」に登場する青山脳病院(下の写真。院長は北杜夫の父親であり歌人の斎藤茂吉)のすぐ隣。

「近所の子供たちがよく病院の庭で遊んでいた」ことが上記の小説内に書いてあるが、その子供たちのうちの一人が祖父だったと。↓
 

 

 
この青山脳病院自体は、火災で焼失した事が、小説内でも描かれてるんだけど、
当然ながら、今は青山、当時の面影は見事に皆無。期待するだけ無駄だった。
…だから東京は面白くないんだよぼけーダウン
 

戦前から欧州航路をゆく貨客船乗りだった、母方の祖父。

NYKのクルーは神戸出身者が多い為、江戸弁の祖父は船乗り仲間たちから、べらんめえ口調をしょっちゅうからかわれてたらしい。…そういえば「日比谷」も「渋谷」も、おじいちゃんは両方「シビヤ」って言うので、聞く方は混乱したなぁ。

最晩年、心臓発作から左半身不随になり、杖を手放せなくなっても、ベレー帽のめちゃくちゃ似合う、粋な人でした。

 

こう見えて、戦時中含め、人生の多分1/3は海上で過ごした、海の猛者。

戦時中には御用船乗りだった為、撃沈・漂流も数回経験してます。

生きているうちに、もっともっと色んな話を聞いておきたかった、と、今も悔いが残ります。

 

 

対し、祖母の写真は…若い頃のも、後年の写真も沢山あるんだけど、どれも、よそゆきを着て綺麗に髪や化粧を整えた写真ばかりで「これ、何か違う。おばあちゃんじゃない」って写真しかなくて悲しい。

若い頃の写真も、着物姿の他、チャイナドレス(満州の女性服というのかな)を着ていたり、モガっぽい洋装をしていたりと、お洒落で素敵な写真は沢山残ってるんだけど、写真館で撮影したもののせいか、表情も硬く、何だか皆、私の知る祖母じゃないんだよね…

祖母も綺麗な人ではあったんですが…祖父とはタイプが違い、丸顔で小柄な可愛い人。

 

後年のものも、旅行の写真とか、特別な行事ごとの写真、写真館で撮った写真しかなくて、家庭菜園で野菜や草花の手入れをしてたり、縁側で足踏みミシンをカタカタ動かしてたり、お裁縫をしてたり、寝ていると子守唄を歌ってくれていた祖母の顔と、何故か、別人みたいに違う。

 

これ言うの、実家のうちで私ひとりだけじゃないので、本当にそうなんです。

突然亡くなってしまうと知ってたら、祖母の普段の素の時の写真をこそ、何枚でも撮ったはずなのに。

 

祖父は89歳で永眠しましたが、13年間も半身不随だった上、癌でとても苦しんで亡くなったので、お葬式の時には「おじいちゃん、やっと苦しみから解放されて、自由になれたんだね。良かった…」という気持ちで、寧ろ皆、笑顔で見送れた。

余命宣告されてから、一年あったので、私がバカだった為に、今思えば他愛ない話しか、出来なかったし聞けなかったけど、それなりにおじいちゃんとは、色々な話が出来た。

 

対し、脳溢血か心不全かで、風呂場で急死した祖母のお葬式では、家族全員、泣きの涙でした。

 

祖母は、家族でささやかなクリスマスパーティをした翌朝、別棟の風呂場の浴槽で亡くなっているのを母が発見したので、本当なら「変死」扱いで司法解剖が入るはずでしたが、警察の方が、動転して何を聞かれても泣き伏すばかりの母と、立ち竦んだままぼろぼろ涙を流す妹と私、祖母の安らかな顔を見て(あと冬場に風呂で亡くなる高齢者が物凄く多い為でしょうね)事件性はないだろうと判断し、解剖しないでくれたんですよね。

祖母の死すら受け止められずにいる中、祖母の身体が傷つけられるのは耐え難かったので、本っ当に有難かった。

ただその代わり、ハッキリした祖母の死因は不明のままです。心臓か脳が、加齢で弱っていた所に、真冬の外気から風呂の湯の温度差で、一気に来たのでしょう。

 

後になって考えると、故人の身になって考えたら、祖父に比べたら、祖母の亡くなり方のほうが遥かに理想的なんですけどね。

苦しみも恐らく全くなく、温かな湯船に浸かり安らかな顔で(当然、朝には大分湯は冷めてましたが)介護も手術や投薬も必要なく、頭もしっかりしていて、明日は美容室に行く予定のまま、家族全員に愛され(ここは祖父も同じでしたが)、静かに82歳の生涯を閉じました。これぞ万人が憧れる理想の「ポックリ」です。

祖父が永き航海に出て、一年を待たずに出航し、後を追ってってしまった感じ。

 

でも残された人達へのダメージは、突然なだけに、めちゃくちゃ大きかったんですよね…💧こんなに突然亡くなると解っていたなら、もっともっと優しく出来たのに。祖母には言えませんでしたが、私が辞めた後に監査が入って一変したほどの、超絶ブラックだった新卒当時の初めての職場、仕事で追い詰められていて、私は祖母に全然優しくなかった。お礼も言えなかった…と。

ばあちゃん…じいちゃんの葬儀の後、これからは未亡人生活楽しむんだって、言ってたじゃん…💧悲しい

祖父がいないと、やっぱり寂しかったのかな…

 

「ハンドメイド劇場」の何処かで、ポムちゃんのひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの姿として触れたのだけど、私の祖父母も、朝の光の中で夫婦向き合って、仲良くパンを食べていた姿が印象残ってる。

(祖父母の家は朝は必ずパンでした。私は朝は味噌汁とご飯の方が好きなんだけど)

 

遺影すら違う人みたいで、祖母が急死した時、大好きだったおばあちゃんの顔が思い出せなくなって、苦しんで、幾晩も幾晩もうなされて、泣いた。

 

湯灌の人がしてくれた化粧がまた、生前と全くかけ離れた髪型や顔にされてしまった為に、本当に、自分の中から祖母がいなくなってしまった。

綺麗にしてくれたのはいいけど、ちょっとだけでも遺影を見て、せめてそれにイメージを近づける努力だけでも、して頂きたかった…

(遺影も、なんか別の人みたいなんだけど、納棺師さんのしてくれたお化粧ほどは、全くの他人みたいじゃなかった。生前一度もしたことない髪型にされてしまい、身内が見ても解らないくらいの別人になっちゃったんですよ)

映画「おくりびと」じゃないけど、最後のお化粧って、遺族の気持ちにとって物凄く大切なんだなと、つくづく思いましたね。ただ身綺麗にしてあげればいいっていう問題じゃないんだなと。

「母の時の最後のお化粧は、自分たちがやろう」と、妹も私も決意しましたぐすん

 

祖父は、若い時の写真見ても、NYKの制服着てても、ちゃんと懐かしい祖父に見えるんだけどなあ。

祖母は「明治時代の面影を求めて青山まで行ってみたが、あったのはただのマンションとか高層ビルとか駐車場」くらい、写真見るとまるで別人で、逆につらい。
 
今は祖母については、かえって写真を見ない方が、存在を身近に感じます。
私に裁縫や創意工夫を教えてくれたのが祖母なので、それをしている時、おばあちゃんが自分の中に今も生きているなと思う。
あと、家族親族含む生前の祖母を知る人から、祖母の話を聞く方が、写真見るより祖母を思い出せて嬉しい。
 
その祖母の話は此方に続きます。

 

 

 

※因みに利用したのはToonme(写真を漫画に変えるフォトエディター)という、外国(多分)のアプリです。アプリ内課金あり。無料の範囲のみ、ちと利用させて頂きました📸🎨🖌️