祖父の話からの続きです。

 

 

 

私の母方の祖母が生まれたのは1912年(大正元年)、東京都下谷区上根岸町(当時は台東区ではありませんでした)。

 

下谷区だった当時の浅草。根岸の昔の写真は、ザックリ見たけど、ネットには無さげ。

 

根岸は、関東大震災にも東京大空襲にもやられなかった東京の奇跡の街なので、青山よりは大正時代の面影残ってそうだけど、
…いいや。なんかもう確認はしたくない。
 

…あ、昔の根岸のお写真をまとめて下さっている方が。キラキラ📷びっくり

>川越の古い町並みが保存されて観光客の人気を呼んでいるのを見るにつけ、根岸の町もなんとかならなかったものかと思えてならない。

ほんとそれ。衰退を免れられないこちら地方と比べ、経済力も人口も、特権階級の東京には、格違いにあるはずなのにさぁ。

残す気があれば、残せたはずだよ。

 

祖母の母方は、福井藩から江戸詰めで江戸に来ていた、徳川の親藩士族の家系で、何世代も前から、住んでいたのは大江戸。

祖母は下町育ちの、祖父以上にチャキチャキの江戸っ子。

 

祖母の物心つかぬうちに父親(私の曾祖父)は亡くなっており、母親(私の曾祖母)が当時、東京随一の紙専門店として、女手ひとつで1男3女を育てていました。祖母は4人きょうだいの末っ子でした。

 

当時、根岸小創設以来の神童と言われ、後に帝大を出、アイソトープの権威として理研のトップとなる長兄、こっちも語学に優れ、後々津田塾を卒業後、横浜女学院の英文学教師となる才媛の長姉、身体が弱く後に20歳で結核で早世してしまうが、繊細な達筆の主で、非常に美しかった次姉。

(祖母の次姉は、うちには一枚しか写真は残ってなかったんですが、思わず「誰?」と聞いたほど、ビックリするような美しい人でした。ただその15歳くらい?の時の写真からも既に、病弱で透き通るように色が白く、いかにも生命力の乏しい儚げな感じがしました。最後はサナトリウムに隔離され、妹に逢いたい逢いたいと言いつつ、逢えぬまま、亡くなったそうです)

 

輝かしい彼らの末妹だった祖母は、小学校の先生から「あなたのお兄さんお姉さんは、優秀だったのにね…」と何かにつけトーン低めに言われてしまう為、ちょっとヒネていた「極めて普通の女の子」でした。

 

ただその代わり、元気いっぱいで、人に愛される天分は豊かにあり、兄姉からも非常に可愛がられていた様子。

 

序でにちょっと話反らしますが、うちの母方の親族には、理系学者が何人もいます。中にはWikiに載るほど有名な学者も。…私や妹は祖母似で、その頭脳、全く受け継がなかったんですけどね…😥

これ何でだ?と思ってたら、その母方の先祖の徳川の親藩士族というのが、代々、刀を持つ武人ではなく「小納戸役」と呼ばれる税金管理職者、つまり今で言う財務省官僚みたいな役職だったらしいんです。持ってたのは脇差しではなく、算盤のサムライだったと。江戸時代から既に、理数に強い一族だったんですね。

今は「我が一族を見なさい。みーんな小さく馬鹿になりつつある(by乙事主)」って感じにコンパクトに纏まりましたが(…あ、でも、再従兄弟とかには、東大を複数学部出てるのとか凄いのいるんですよ。はぁ…ムカつく…むかつき💢)

べらぼうに優秀なのが身内や先祖にいて、自らの頭の悪さを血筋のせいに出来ないのって、キッツいんですよ。祖母がヒネるのも解ります。

先祖がバカボンパパだったら良かったのに…ショック

 

ある日のこと、優秀な兄は、珍しくアカデミックに、兄の科学雑誌を開いて真剣に読んでいた末妹から「お兄ちゃん、ひぼしじんまって何?」と真顔で聞かれ、意味解らずに雑誌を見たら、見出しに「火星人間」と書かれていたと。

後に(祖母の死後)このエピを、長姉になる母の伯母が、とても楽しそうに懐かしげに語っていたので、いかに、無邪気な末っ子だった、お茶目で明るい祖母の存在が、父親のいない家庭内を和ませていたかが、窺える気がしました。「○ちゃんは、絵が上手で手先が器用で、活発で、いつも周りを笑わせる何かをやらかしていた」と、私の母の伯母は、後年、彼女の末妹について語りました。

 

曾祖母の紙屋には、多くの画家や詩人、小説家が原稿やスケッチブック、下書き用紙などを買う為に出入りしました。

画家たちは使用済みのラフスケッチ用紙を曾祖母のところに持ち込み、代わりに曾祖母は新しい紙を彼らに安く売りました。そうして下絵をした紙は、襖の下張り等になったり、紙を重ねて箱を作る時の紙になったり。また、上手な絵であれば、そのまま障子紙等として絵柄を生かして売ったりすることも。昔の日本人は貴重な紙資源を、ちゃんと効率良くリユースしたんですね。

永井荷風が書いたと言われる有名なエロ本「四畳半襖の下張り」じゃないけど、古民家の襖を剥がしたら中に有名画家の幻のラフ画が!💰️✨なんて、マジである話かも。とその話を聞いた時、思いました。

 

曾祖母(祖母の母親)は、二科展などの絵画コンクールが開かれる度に、眼鏡をかけて新聞の入賞者欄を丁寧に隅々まで読みました。

そして通いの画家たちが入選すれば、共に喜び祝い、また落選し、意気消沈して泣きながら店に入って来ると「選者に目がなかっただけさ。次はきっと入選するよ。紙代はちょっとおまけしてあげるから、また頑張りな」と慰め、励ましたそう。

 

詩人や小説家では、私が聞いた中では、正岡子規や岡本かの子が原稿用紙を買いに来ていたと聞きました。

幼少期の祖母は、正岡子規に抱っこしてもらったことがあったそう。

私自身が祖母に「そうだったの?」と聞くと「うん。正岡子規は背が小さ~い、痩せ~たお爺さんでね、ネズミみたいに背を丸めてこう、ヒョコッヒョコッって感じに前こごみになって歩く人だったよ。首にいつも黄色いネルのマフラーを巻いてたねぇ🤔」と。

…末っ子って、なんか観察眼鋭いよね😅←私は上の子だからあんま他人に興味がないw

あと正岡子規、34歳で亡くなったから、今考えたら全然、お爺さんじゃないよ💧めっちゃ失礼だなw叫び

幼い祖母には、そう見えたんだろうな。子規、晩年は病みほうけて窶れていただろうし…

 

晩年は緑内障で全盲になってしまう曾祖母は、歌舞伎でパッと投げる紙(蜘蛛の糸というんですか、これ)を巻くのが非常に上手だったそう。

つか改めて考えると、全部これ、手巻きだったんだね。歌舞伎が出雲阿国の頃からの伝統芸術なんだから、そりゃそうよね。

今はどうだろう。

 

 

 

関東大震災の時は、凄まじい揺れだったものの、家自体は無事だったそう。

ちょうど昼飯時で、食べてた蕎麦が天井まで飛び上がり、手に持った箸が腕ごと、振り切れたメトロノームのように上下し、家にいた家族全員、近所の竹林の中に、這い込むようにして避難したと、祖母やその姉が話してました。

深川だの小石川だのは、火災もあり壊滅的被害を受けたらしいですが、トワイライトゾーン根岸は流石、ほぼ無傷。

 

そんな祖母は、勉強は出来のいい兄姉にまかせて早々ポーイし(私や妹にも「勉強なんかそこそこでいいんだよ!」と言ってくれる有難い祖母でしたニコニコ)、自転車で町内を走り回り(自転車に乗る少女自体、幾ら東京とはいえ、当時は多数派ではなかったと思います)、普通の成績で一般的な女学校に通い、私の祖父とは見合い結婚でした。

 

長男だった祖父は、見合いの時、祖母に「私には幼い弟妹が何人もいて、ほぼ海に出たきりなので、結婚するとあなたには大変な迷惑がかかるかもしれない。断っていいのですよ。女性のあなたから断りにくいなら、私からお断りしておきましょうか?(当時は女性の方からは縁談を断ってはいけないような風潮があったそう)」と訊いたのだそうですが、祖母は「いえ、構いません」と即答。

昭和12年、既に日中戦争が始まりかけて、早くも巷では男が払底していたし、仲良かった次姉が儚くも病死、自分が早く嫁いで母親を安心させたい、選り好みしてる余裕はないという思いもあったと思うけど、私の母曰く「おばあちゃん、メンクイだからねえw🤭」と。

まあ…確かにそうとしか考えられないほど、結婚条件としては凄まじく過酷。

(因みに祖父は11人きょうだいの長男。幼くして亡くなった弟が数人いたので、ちゃんと成人したのは9人。末の弟とは31歳差で、その末弟さん曰く、長兄は完全に父親にしか見えなかったらしいです)

 

こうして祖母と祖父は無事結婚したものの、結婚式を挙げる為に病気を装って休暇をもらい、横浜港に降りて東京に向かい、急いで式を挙げた祖父は、その僅か数日後には、数ヶ月から半年間は日本に帰れぬ海へとんぼ返り、祖母は、嫁いびり激しい姑と、血の繋がらない大勢の弟妹の世話に追われることになるのでした。

 

その間、祖父とのやり取りは、港を降りる度に宛先の変わる、国際郵便だけ。

(次の港は海外のどこそこだからそこの私書箱に宛てて書いて、と、祖父から手紙で連絡が来て、上海のニューヨークのリバプールのマルセイユのジェノバのメルボルンのシドニーの…と、祖母が都度、そこに宛てて、読めない外国語の宛先をたどたどしく書き写し、したためてたらしいんですよ)

戦前の手紙は皆、焚き付けにしちゃったらしいですが(残ってたら、めっちゃ読みたかった…)それだけでも、風呂が炊ける位の分量はあったらしい。

 

「波浮の港」じゃないが、文字通りの「島の娘たちゃ、御神火暮らし」「伊豆の伊東とは、郵便だより」。

いや、無理無理無理。私なら耐えられない。遠恋無理な人だし。

 

・・・・・

 

 「波浮の港」中山晋平

 

 

 

詩人、野口雨情は、この歌で伊豆大島を一躍有名観光地へと押し上げましたが、彼自身は北茨城出身で、その故郷の海の情景のみを胸に描いて、詩を作りました。…伊豆大島へは、そもそも行ったことがあるかどうか。

だから「なじょな」は「どのような」という意味の茨城弁ですし、鵜は北茨城の海に舞う鳥であり、伊豆大島にはいません。また西に立つ三原山に遮られる為、波浮の港村からは、実は夕焼けも見ることは出来ないのだそう。

いやいやいや、それでいいのかマジで。と思うんだけど、彼が歌詞を書けば歌がヒットしちゃうんだから、しゃああんめえ(茨城弁「しょうがないだろうよ」)。

 

因みに、野口雨情先生…

…「七つの子」の「七つ」って、何ですか?カラスは7羽も子を産まないし、7年も生きないし。ひょっとして7という数字には、なんか特別な暗号的な意味が?

と聞かれて「いや、あのね、ただの語呂だから。こういうのは頭でどうこう考えるんじゃなくてさぁ、感覚で読んでよw」っぽいことを、お答えになったらしいので…

 

しかしまあ、胸痛む歌詞ですね。

当時、多くの人がこの歌に共感し、涙を流したのも、よく解ります。

舟人ばかりではなく、出稼ぎや行商なんかの人も、皆。家で家族を待つ人も、家族を家に残し、旅立つ側の人も。

 

今は昔に比べたら、海難事故も随分減ったでしょうし、女性だって働いてるから、海外出張とかあるだろうし、世界の距離がめちゃめちゃ身近になったし、家族との連絡手段もLINEやSNSやZoom等含め、山ほどあるでしょうが…

船乗りの女房って、昔は本当に、常に不安で大変だったのだろうなぁ、と思います。

 

…時化の度、世界情勢に揺らぎが起きる度、どこそこで海難事故が起きたと報じられる度に、ただ心を震わせながら、海に出た者の無事を、家でご神火をあげてひたすら祈るしかない人たちは、多かったはず。

…小さい漁船でも、大きな貸客船でも。