不安障害で苦しんでいる人で、苦しみの正体を間違えている人がいるかもしれません。
あがり症で苦しんでいる人が、いつも苦しめられているのはアガルことではありません。
あがった時も苦しくはなりますが、それより苦しめられているのは「アガルかもしれない」という“不安”なのです。
あがった時も苦しくはなりますが、それより苦しめられているのは「アガルかもしれない」という“不安”なのです。
強迫性障害で苦しんでいる人が、いつも苦しめられるのは何度も手を洗うことではありません。
何度も手を洗っている時も苦しくなりますが、それより苦しめられているのは「何度も手洗いを繰り返してしまうかもしれない」という“不安”なのです。
何度も手を洗っている時も苦しくなりますが、それより苦しめられているのは「何度も手洗いを繰り返してしまうかもしれない」という“不安”なのです。
「どちらでも関係ない」と思う人が多いかもしれません。
しかし、苦しみの正体を間違えていることが、苦しみがなくなっていかない理由かもしれません。
しかし、苦しみの正体を間違えていることが、苦しみがなくなっていかない理由かもしれません。
もし、人前でアガルことがなくなったとしても、「アガルかもしれない」という“不安”がなくならなければ苦しみはなくならないのではないですか。
手洗いを何度も繰り返さないようになったとしても、「また、手洗いを何度もしてしまうのではないか」という“不安”があれば苦しみはなくならないのではないでしょうか。
いちばん苦しめられているのは“不安”なのです。
「アガルことをなくそう」と思って、アガルことがなくなったとしても“不安”はなくなりません。
「手洗いを何度も繰り返さないようにしよう」と思って、手洗いを何度も繰り返さないようになったとしても“不安”はなくなりません。
「手洗いを何度も繰り返さないようにしよう」と思って、手洗いを何度も繰り返さないようになったとしても“不安”はなくなりません。
どういう状態になれば、“不安”はなくなるでしょう?
「また、あがってもなんともない」「また、手洗いを繰り返してもなんともない」という思いになることができた時です。
「あがってもなんともない」「手洗いを繰り返してもなんともない」という思いになることができれば、もう怖いものはありません。怖いものがないから苦しまなくても済むようになるのです。
何か怖がっている状態があるならば、一時的に症状が消えたとしても“不安”はなくなりません。
ですから、このブログでも何度もお話していますが、アガルことがなくなったとしても、手洗いを繰り返さないようなったとしても、それらを“受け入れる”ことができていなければ苦しみがなくなることはないのです。
「“不安”がなくならなければ苦しみはなくならない」ということを忘れないようにしてください。
(※“受け入れる”ことができたとしても、“不安”は完璧になくなるわけではありません。条件反射的に不安が頭に浮かんでくることがあります。しかし、“受け入れる”ことができていれば、不安と戦わないで済むので、不安は自然と消えていきます)