アイドルでタレントの上原美優さんが、12日未明に亡くなった。
自殺との報道だ。
まだ24歳。 人生はこれからだという時に・・・。
ちょっとショックです。
美優さんといえば、「10人兄弟の貧乏家族」がウリの種子島出身のタレントだ。
私は、美優さんとは直接面識が無いが、種子島出身ということで、
以前から注目をしていました。
なぜなら
私の息子が小学生の時、1年間、種子島に山村留学をした。
(種子島では「宇宙留学」という)
そして、そこの里親さんには、随分とお世話になりました。
以後、私はすっかり種子島ファンになりました。
里親さんと美優さんのご実家とは隣町で、ご家族同士の交流もあるらしい。
私と家内が、小学校の運動会の日に種子島を訪れた時、
その里親さんから、とても興味深い話を聞いた。
それは
若狭という一人の少女の物語だ。
里親さんと酒を酌み交わしながら、歴史談義に花が咲いた。
天文12年(1543年)8月、
種子島の門倉岬に、台風で破損した中国のジャンク船が漂着。
そこに3人のポルトガル商人が乗っていました。
船の修理の期間、ポルトガル人たちは領主、種子島時堯邸に滞在。
そこで持参した鉄砲を自慢げに見せました。
日本人が初めて鉄砲を目にする歴史的瞬間です。
すっかり鉄砲を気に入った時堯は、法外な金額で二丁を買い上げ、
さらに島の鍛冶屋、八板金兵衛に鉄砲の製造を命じました。
ところが日本には、まだネジを切る技術がありません。
ポルトガル商人は、日本人に鉄砲製造の技術を教えてしまうと
以後、商売にならないからと、なかなか教えてくれません。
しかし、ポルトガル人の一人が、金兵衛の娘、若狭(16歳)の美貌に
目をつけていることを知り、
若狭と引き換えに、ネジを削る技術を伝授してもらうことを打診。
金兵衛は、悩みます。
しかし若狭は、父の苦悩を見て、ポルトガルに行くことを承諾しました。
こうして若狭は、ポルトガル人の妻になります。
日本人初の西洋人との国際結婚です。
ところがポルトガル人は、若狭を船にのせると、さっさと出航してしまいました。
約束を反故にするつもりでしょう。
「月も日も 日本(やまと)の方ぞ なつかしや
わが双親(ふたおや)の あると思へば」
若狭がポルトガルで詠んだ歌だと伝えられています。
ポルトガルに連れて行かれた若狭。
そこで、どのような苦労や出会いがあったのでしょうか。
なにはともあれ、
一年後、若狭は、ポルトガルから鉄砲鍛冶を連れて種子島に到着。
こうして日本で鉄砲が製造されることとなった。
金兵衛から鉄砲の技術を学んだ鍛冶屋が、やがて堺などで鉄砲を製作。
日本で大量生産が始まります。
戦国時代は、信長や秀吉によって終わりをつげます。
こんなに早く天下統一が果たせたのも、鉄砲によるところが大です。
自国で鉄砲の製造ができなければ、日本は外国の植民地になっていたかも知れません。
そういう意味では、若狭が自らの身を盾に日本を救ったといえるでしょう。
そんな歴史のあったこと。
若狭という少女がいたことを、果たして何人の日本人が知っているでしょうか。
私は若狭のことをドラマにしたくなった。
それで、種子島の鉄砲伝来館で、若狭のことを随分調べました。
そして里親さんには、「いつか若狭をドラマにします」とお約束した。
私はドラマのプロットを書き、TV局に渡したが、
残念ながらTVのドラマ化は難しそう、とのこと。
理由は いろいろです。
もしドラマ化が実現すれば、何らかの役で、上原美優さんを推薦するつもりでした。
場合によっては、若狭役もあり得たかも知れません。
故郷に錦を飾らせてあげたかった。
でも諦めません。
これを機会に、もう一度、企画にトライしてみようと思います。
今度は映画で。
種子島の人は、とても心が温かで親切です。
それは接していて、本土の人間とは温かさのレベルが違うことを肌で感じます。
道を歩いていても、全然知らない人が挨拶してくれます。
都会では考えられないことですが、種子島ではそれが普通なのです。
ここには、昔の古き良き日本の姿と、人の心がまだ残っています。
種子島育ちでピュアな心を持つ美優さんも、都会人とのギャップに
戸惑いがあったのかも知れません。
明るくて笑顔の素敵な人でしたよね。
それゆえに残念でなりません。
心よりご冥福をお祈りいたします。