自己変態化のパラドックス②~トライアスロンを続けられた理由~ | Afro-Qってどういう意味か議論するブログ。

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法政大学・中央大学トライアスロンチームAfro-Q

その結果、トライアスロンは私の個性となり、

私を証明する上で必要な要素になってくれた。

私はどういう人間になりたかったのか、どういう人間なのか、

トライアスロンを通じて証明することができるようになったのかもしれない。



そして「ひたむきさ」を手に入れた。

そして、私はこの「ひたむきさ」をウリにし、「ひたむきさ」を食い物にした。

その結果、逆に「ひたむきではない自分」がそこにはいた。


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私の根源では自分がずるく、卑怯であることをトライアスロンを通じて

何度も思い知った。

しかし、受け入れるというか、それで何が悪いと開き直ることができるようになった。

これは大きな収穫である。自分の弱さ、ずるさも知り、受け入れ、

その上で頑張ることができた。私はアイデンティティに実感が持てるようになった。



この一連の成長の過程を私は精神的な「変態」と呼びたい。

私がいう「変態」は露出狂などの一般的な変態でも

スポーツ界で言う、通常よりも質、量において常軌を逸した際に使われる「変態」でもない(ちょっと頑張ったくらいでは変態的ではないので注意してほしい。)



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(無謀行為にも意味はないので注意してほしい)



私が言いたいのは生物の「変態」(学校で習ったと思うが、お玉じゃくしなどがカエルになる時に「変態」と言う。

同じ生物が違う生物へと変化すること。とても神秘的な現象ですね)の精神的なパターンである。高校の部活であったり、受験であったり、大きな病気、挫折、失恋などで既に経験している人も多いだろう。

私にとってはそれがトライアスロンであった。





その「変態」の過程において、自己を否定することが逆に自己への肯定につながり、自己を破壊することで新たな自己を創っていたのだ。


「変態」とは自己の否定と肯定、破壊と創造が混在するパラドックスなのだ。


自己否定はネガティブな思考として、あまり良しとされていないが、

私は自己を否定することも大切なのではないかと思う。

ここで勘違いしてほしくないのは、ただ自己否定で終わっては意味がない。

自己否定を原動力に頑張ることが重要なのだ。

それこそが、私にとっての「変態」である。




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大山がブログでアイデンティティが変革したと書いていたが、要は彼も「変態」したのだ。

尾形が練習が楽しくなったことも、彼が何かを見出し「変態」したのだ。


「自己を新たな自己」へと変えることが、

トライアスロンの魅力のひとつであり、大学生活の大きな成果であり、

トップ選手になるわけでもなし、部活でもなしに

私がトライアスロンに大学生活を捧げたことの大きな理由である。


だから、私はトライアスロンが苦しくても、インカレで勝てなくても、辞めることはなかった。こういったポジティブなスタンスは就職してからも十分役立っている。


「自己実現」とか「熱い」とか「頑張った」とかで表現して片づけることもできるが、私は自分の中で「自己実現」や「情熱」や「努力」を自分の経験と言葉で再定義することもたまには必要だと思う。そうでなければ、安易な「自己実現」や「熱い」とか「頑張った」で溢れてしまう。そして、結局使っている意味もよくわからず、中身のない言葉になってしまう。